和算。

<今日の江戸学>
和算とは
 和算(わさん)とは日本で独自に発達した数学です。特に江戸後期には日本中で数学ブームが起き、最終的に関孝和行列式や高等数学を大成させた。しかし、明治時代に西欧数学が輸入され、和算は日本の教育現場から姿を消していく。
 和算が、見直されてきている理由は、その楽しいストーリー性にある。例えば若い少女を好きになってしまった男性の禁断の恋を題材にしているものや、家督相続で遺産をどう分配するかといった生々しいものもある。無味乾燥な問題ではなく、問題ひとつひとつに愛や楽しさがある、まさに江戸っ子ならではの粋さが垣間見ることができる。
和算の歴史
 17世紀 寺子屋(庶民の学校)でそろばんの計算を教えるようになる。
 1627年 吉田光由の「塵劫記」ができる。そろばんの計算を記述した本書は大ベストセラーとなり、類似本・海賊本が数多く出版されることとなる。
 1641年 吉田光由の「新篇塵劫記」ができる。。 巻末に答えのない難問を載せ、他人に解かせる「遺題継承」が数学者の間で流行する。
 1674年 関孝和の「発微算法」ができる。 当時のヨーロッパよりも早く行列式を発明し、和算を大成させる。
 1683年 日本最古の数学絵馬「算額」が栃木県佐野市に奉納される。
 18世紀 建部賢弘の和算全書「大成算経」が完成。 全国的に和算・数学がブームとなり、出版や遊算の旅に出るもの多数。
・チェックテスト
1. 和算には 関孝和の「関流」 会田安明の「(最上流 )」など諸流派があった。
 ・和算における解析学に関連した研究を円理といい、関孝和の登場以降大いに発達した。円理という名は、円周率や円積率、球の体積や表面積が主な 問題となったことによる。関孝和は円に接する正多角形の辺の長さを用い、円周率を11桁まで得ている。
2. 関孝和は誰に仕えましたか。・・・・徳川綱重、徳川綱豊
3. 寺子屋でも 吉田光由の(塵劫記)が教材として使われました。
 『塵劫記』(じんこうき)は江戸時代の算術書。1627年に吉田光由が執筆した。命数法や単位、掛け算九九などの基礎的な知識のほか、面積の求め方などの算術を身近な話題をもとに解説し、これ一冊で当時の日常生活に必要な算術全般をほぼ網羅できる内容となっている。
4. 関流の数学を学び書物を著わす大名もいました その人は誰。・・・有馬頼徸(よりゆき)(筑後国久留米藩の第7代藩主、数学者としては関流算術を修め、当時最高水準の和算書『拾璣算法』を著した「算学大名」) 
5. みずから解いた難問や 数学者に挑戦する問題を記した絵馬を神社に奉納しました これを何といいますか。・・・算額
 算額(さんがく)とは、江戸時代の日本で、額や絵馬に和算の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したもの。平面幾何に関する算額(特に円の中に多数の円や別図形の中に多数の球を入れるなど接点を持つもの)が多い。

◆松平伊豆守信綱
松平信綱とは、江戸前期の大名。名は亀千代、のち長四郎・伊豆守、俗称は知恵伊豆。家光・家綱に仕え、幕府創業の基礎を固めた。寛文2年(1662)歿、67才。
松平信綱 −「知恵出づ」と呼ばれた江戸初期の天才官僚−<https://www.blwisdom.com/strategy/series/rekishi/item/1191-37.html
・松平伊豆守(まつだいらいずのかみ)は、江戸時代、大河内松平家が伊豆守に就任したときの呼び名。老中職などを務める人が居たため、時代劇などに良く登場する呼び名でもある。この時のモデルは主に俗に知恵伊豆と称される松平信綱がなっている場合が多い。
・その才知から「知恵伊豆」と呼ばれた老中・松平伊豆守信綱が、明暦元年(1655)に玉川上水から分水し、水利の悪い武蔵野台地へと導いた農業用水路が「野火止用水」。その一部はさらに分流され、松平家菩提寺の平林寺境内へと流れ、松平家の墓域を潤したのち、川越街道へと抜ける。