黄門忌

<今日の江戸学トピック>
◆今日は黄門忌。元禄13年(1700)12月6日、水戸2代藩主徳川光圀が亡くなりました。73歳。徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。殉死を禁止し、儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。
●権の中納言に就き、中納言唐名が「黄門」であることから、水戸黄門として知られるようになった。朝廷の官制はもともとは唐の律令制にならってつくられたもので、その中国では門下省(これが漢の時代には黄色い門であったと言います)という役所の次官の役名が「黄門侍郎(黄色い門の内で仕事をする人という意味)」である。中納言太政官の次官にあたり、その職が黄門侍郎に相当するところから、黄門と呼ばれた。
●有力な大名家の後継ぎは、元服に際して将軍の名前の一字を貰い受ける慣例になっていた。光圀が元服したときの将軍は、光圀とは従兄弟にあたる家光である。ただし、家光は従兄弟である光圀よりも一世代年上で、光圀の父頼房と同年代であった。頼房と家光が叔父甥の関係であるが、同年代でもあり、家光からの信頼は厚かったようである。光圀は、家光の「光」の字を許され光国という名前となった。(後に「国」の字を「圀」に改名した。)ちなみに、「御三家」(尾張家、紀伊家、水戸家)の”二代目”は、家光から偏諱を許されて「光」の字を名前(諱と言います)に付け、光友(尾張家)、光貞(紀伊家)、光国(後に光圀)といわれ、その他にも有力な大名は、軒並み「光○」という名前だった。これが、家綱の時代になると「綱○」、綱吉の時代になると「吉○」という名前になった。(「綱吉」は家綱から偏諱を許されての名前、「吉宗」は綱吉から偏諱を許されての名前である。)
・光圀(当時は光国)が水戸徳川家の当主となったときの将軍は家綱。その家綱が亡くなる際、時の権力者だった大老酒井忠清(「下馬将軍」とも称されていました)は、家綱の後継者に有栖川宮幸仁親王を擁立しようとしたとされている。光圀(光国)はこれに反対し、家綱の弟である綱吉を後継に推した。つまり新将軍綱吉にとっては、光圀(光国)は”恩人”に当たるわけであるが、後に両者は対立した。その原因の一つになっていたのが、”今度は”綱吉の後継問題。男子を夭折させ、後継ぎを失った綱吉は、自分の娘鶴姫の婿である紀伊家の綱教を後継者にしたいと願っていた。ところが、光圀は”筋目”を重視し、綱吉の兄の子である甲府綱豊(後の家宣)を後継者に推します。綱豊(後の家宣)を後継にと推した光圀は、綱吉の後継問題が決まる前に亡くなっているが、ところが、綱吉が後継にと願った綱教も亡くなってしまい、結局綱吉の後継は綱豊となった。(そして「家宣」と改名して江戸城西の丸に入った。)
 また、光圀は、「生類憐みの令」に反対し、犬で作った毛皮を綱吉に献上したと伝えられている。光圀の生きた時代の将軍は家光、家綱、綱吉の三人。そのうちで光圀が水戸徳川家の当主として仕えたのは家綱、綱吉の二代。