養生所を開設。蒲生君平、そして幸村と大助の供養碑。

<今日の江戸学トピック>
享保7年(1722)12月7日、徳川8代将軍吉宗が幕府の小石川薬園内に養生所を開設。前年設けられた目安箱が発端。この年の正月に小石川伝通院の町医小川笙船が貧民のための施薬院の設立をうったえ、南町奉行大岡忠相の審査の結果、実現化。治療期間の食事、衣服、寝具は官給。入浴は週三回。当初の収容人員は40名でした。小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)は、江戸時代に幕府が江戸に設置した無料の医療施設。将軍徳川吉宗江戸町奉行大岡忠相の主導した享保の改革における下層民対策のひとつ。幕末まで140年あまり貧民救済施設として機能した。
高山彦九郎林子平と並ぶ「寛政の三奇人」のひとり、蒲生君平を祀る宇都宮の蒲生神社。(蒲生 君平(がもう くんぺい、明和5年〈1768年〉 - 文化10年7月5日〈1813年7月31日〉)は、江戸時代後期の儒学者尊王論者、海防論者。同時代の仙台藩林子平上野国郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる。生涯を赤貧と波乱に満ちながら、忠誠義烈の精神を貫いた。姓は、天明8年(17歳)に祖先が会津藩蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘を身重のため宇都宮に残し、それから4代目が父の正栄という)に倣い改めた。)天皇陵の荒廃を嘆いた君平は、独自に調査研究して「山陵志」を著し、幕末の尊皇派にも大きな影響を与えた。「前方後円墳」の名称は君平が生み出したもの。
◆長野松代の長国寺真田家墓所で、初代藩主信之の墓塔と向かい合うように立つ、弟・信繁(幸村)とその息子・大助の供養碑。大坂夏の陣で豊臣方として奮戦、一時は徳川家康を窮地に追い込んだ信繁の活躍を幕府に対してはばかりつつ、真田家存続のためにあえて敵となって戦った弟を労わるよう。(慶長20年(1615年)年の大坂夏の陣では、道明寺の戦い(5月6日)に参加。伊達政宗隊の先鋒(片倉重長ら)を銃撃戦の末に一時的に後退させた。毛利勝永隊はこの時、真田隊より早く戦闘現場に着陣済みで、真田隊の到着を待っていた。しかも当日の指揮権は、大坂城内の譜代の大野治長が持っていた。そのため、後藤基次討死の責任が、信繁や勝永ら現場の武将にあるとは断定できない。しかし、所定の時間に着陣できなかった信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と信繁を慰留、自らは退却に移った。ここで真田隊は殿軍(しんがり)を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させた。この撤退戦の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。この言葉は後世にまで語り継がれた。信繁は兵士の士気を高めるためには、豊臣秀頼本人の直接の出陣を訴えたが、豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は困難を極め。5月7日、信繁は大野治房明石全登毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。先鋒の本多忠朝の部隊が毛利隊の前衛に向けて発砲し、射撃戦を始めた。信繁は、かねての作戦計画に齟齬をきたすため、毛利隊に射撃中止の伝令を遣わし、勝永自身も中止を促したが、射撃戦は激しくなるばかりで、本格的な戦闘へと突入したが合図を待たずに射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なくなった。これを受けて信繁は、軍目付の伊木遠雄に向かって武運拙きことを嘆き、己の死を覚悟したという 、この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は壊乱して総崩れの観を呈するに至った。信繁率いる真田隊は、越前松平家松平忠直隊・15,000の大軍を突破、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ、後方の家康本陣に向かって突撃。親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙、家康本陣に突入した。家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり、真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという話も伝わる。奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる。しかし数度に渡る突撃で部隊は消耗し、真田勢は敗れ、兵力で勝る徳川勢に押し返された。信繁は四天王寺近くの安居神社大阪市天王寺区)の境内で傷つき疲れた身体を休ませていたところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「儂の首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られた。享年49。)

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<今日の小池劇場>
◆都議会自民党 小池知事に徹底抗戦。
 東京都議会の本会議が開かれ、小池知事が表明した復活予算枠の廃止について自民党が議会軽視だと批判した。復活予算枠は各会派の要望をうけて知事が200億円を割り振る。小池知事は予算の調整権を有するのは知事である私と強気の姿勢を見せた。都議会公明党らが東京大会の経費削減などについて質問した。小池知事は、競技会場の見直しだけでなく、開催経費全体の抑制に取り組む考えを示した。