那須国造(くにのみやつこ)碑。藤田東湖。

◆栃木県の笠石神社のご神体で日本三古碑のひとつ、国宝「那須国造(くにのみやつこ)碑」。元禄9年(1691)、水戸黄門こと2代水戸藩主・徳川光圀の命により、1000年近く前に造立され、久しく土に埋もれていたこの石碑を発掘・調査して覆屋を建てたのは、かの「助さん」こと佐々介三郎宗淳。

水戸藩主・徳川斉昭の懐刀で尊攘志士たちの精神的支柱ともなった藤田東湖安政2年の江戸大地震の際、東湖は同藩小石川上屋敷で、余震の続くなか火種を案じて邸内に戻った老母を追い、身を挺して倒壊から救ったが、自らは力尽きて圧死。
 藤田 東湖(ふじた とうこ)は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。戸田忠太夫水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された。また、水戸の両田に武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称される。特に水戸学の大家として著名であり、全国の尊皇志士に大きな影響を与えた。号の「東湖」は生家が千波湖を東に望むことにちなむという。
 藤田氏の遠祖は小野篁に遡るというが不明。のちに常陸国へ移り、那珂郡飯田村中島で百姓となったという。曽祖父・与左衛門の代に水戸城下に移り、商家に奉公してのれん分けを許され店を開いた。祖父・与右衛門(言徳)は水戸城下の奈良屋町で屋号「藤田屋」という古着屋を営んでいたが、学問を好んだ。その次男が東湖の父・幽谷で、幼少時より学才高く神童とうたわれ、立原翠軒の私塾に入門した。さらに彰考館の館員となって頭角を現し、水戸藩士分に列した。幽谷には2男4女があった(東湖からすると兄1人・姉1人・妹3人)。長男の熊太郎は東湖の誕生前に早世していたため、東湖は唯一の男子として育てられた。文化3年(1806年)、水戸城下の藤田家屋敷に生まれる。父は水戸学者・藤田幽谷、母は町与力丹氏の娘・梅。次男であるが、兄の熊太郎は早世したため、嗣子として育つ。
 文政10年(1827年)に家督を相続し、進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集や彰考館総裁代役などを歴任する。また、当時藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立する。文政12年(1829年)の水戸藩主継嗣問題にあたっては斉昭派に与し、同年の斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進し、天保11年(1840年)には側用人として藩政改革にあたるなど、藩主・斉昭の絶大な信用を得るに至った。
 しかし、弘化元年(1844年)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、同年9月には禄を剥奪される。翌弘化2年(1845年)2月に幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。この幽閉・蟄居中に『弘道館記述義』『常陸帯』『回天詩史』など多くの著作が書かれた。理念や覚悟を述べるとともに、全体をとおして現状に対する悲憤を漂わせており、幕末の志士たちに深い影響を与えることとなった。弘化4年(1847年)には水戸城下竹隈町の蟄居屋敷に移され、嘉永5年(1852年)にようやく処分を解かれた。藩政復帰の機会は早く、翌嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国マシュー・ペリー浦賀に来航し、斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、江戸幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。安政元年(1854年)には側用人に復帰している。
 安政2年10月2日(1855年)に発生した安政の大地震に遭い死去。享年50。地震発生時に東湖は一度は脱出するも、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させるが、自身は力尽き下敷きとなって圧死したといわれる。

◆東京都世田谷区上町では歴史がある市「世田谷のボロ市」が今日から明日16日、そして来年1月15日、16日開催される。天正のころ(1570年代)の楽市に始まる農民相手の農具市として毎年暮れに開かれていた市。古着の売買やボロ布が売られていたことからボロ市と名がついたそうである。代官屋敷を中心とした通称「ボロ市通り」に、日用雑貨や骨董品、植木や食料品など約700店ものさまざまな露店が立ち並ぶ。