高杉晋作挙兵

<今日の江戸学トピック>
◆元治元年(1864)12月16日、長州藩高杉晋作が潜伏先の福岡から帰郷、下関で挙兵しました。先の長州征伐をうけ保守派が実権を掌握していた長州藩。挙兵には藩政の主導権を奪い返し、攘夷を遂行しようという狙いがありました。前年に高杉が立ち上げた奇兵隊同様、大半が農民、町人、僧侶、神主、力士ら志願兵からなる諸隊と呼ばれる部隊からで、2000人が集結しました。

●高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日1839年9月27日)- 慶應3年4月14日(1867年5月17日))は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。
 長州藩では、晋作の渡航中に守旧派長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、晋作も桂小五郎木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)らと共に尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。文久2年(1862年)、晋作は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金澤八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎)[1] が相談した。しかし玄瑞が土佐藩武市半平太に話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。
 この過程で、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、専ら桂や久坂が担当することとなる。文久2年12月12日には、幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。これらの過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では晋作を江戸から召還する。その後、吉田松陰の生誕地である松本村に草庵を結び、東行(とうぎょう)と名乗って、十年の隠遁に入ると称した。
 文久3年(1863年)5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗する(下関戦争)。晋作は下関の防衛を任せられ、6月には廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺赤間神宮の隣)を本拠とするが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された。京都では薩摩藩会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変長州藩が追放され、文久4年(1864年)1月、晋作は脱藩して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害した。
 8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。時に晋作、24歳であった。交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。晋作はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した(古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)。これは清国の見聞を経た晋作が「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。ただし、このエピソードは当時の記録にはない。
 幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した)が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、再び下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。後に奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年)3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。晋作は同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより、攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうの(後の梅処尼)とともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。元治2年(1865年)1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年(1867年)3月29日には新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる(明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名し現在に至る)。高杉本家は義兄の春棋が継いだ。
 再度の長州征討に備え晋作は防衛態勢の強化を進めた。慶応2年(1866年)1月21日(一説には1月22日)、彼が桂小五郎井上聞多伊藤俊輔たちと共に進めていた薩長盟約が土佐藩坂本龍馬中岡慎太郎・土方久元の仲介によって京都薩摩藩邸で結ばれた。5月、伊藤俊輔と共に薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を購入している。6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として「丙寅丸」に乗船し戦闘指揮を執った。周防大島沖で幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半七率いる第二奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還している。小倉方面では艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させている。その後小倉城近くまで進撃したものの肥後藩細川家の軍勢に撃退され戦況は停滞した。
 しかし7月20日将軍徳川家茂が死去すると7月30日には肥後藩久留米藩柳川藩唐津藩・中津藩が撤兵、幕府軍総督小笠原長行も海路で小倉から離脱、残された小倉藩が8月1日小倉城に火を放ち逃走したため幕府軍の敗北が決定的となった。幕府の権威は大きく失墜し翌慶応3年(1867年)11月の大政奉還へとつながることとなった。その後、肺結核を桜山で療養するが慶応3年4月14日(1867年5月17日)に死去。享年29(満27歳没)。

◆今日から19日(月)まで台東区浅草寺では羽子板市が開催。江戸時代、正月用品や縁起物を売る店が立ち並んだ「歳の市」が由来。