榛(はんのき)稲荷

<今日の江戸学トピック>
◆両国の榛(はんのき)稲荷は、榛馬場と呼ばれる弓馬の鍛錬場の片隅にあった。引越し魔で知られる葛飾北斎・応為父娘が境内脇に住んだことでも知られる。江戸時代に武士が馬術を訓練するための馬場が設けられていた。東西約185m、南北約22mの広さがあり、馬場を囲む土手に大きな榛(はんのき)があったので「榛馬場」と呼ばれた。馬場に祀られていたのが「榛稲荷神社」である。1837(天保8)年に亀沢町の若者が奉納した木造漆塗の奉紙立(正式の食事の時、膳の盛り物の周囲に、紙をさまざまな形に折って立てる器)が、震災、戦災を逃れて今でも保存されている。
 本所(現在の墨田区南部)に生まれた絵師葛飾北斎は、この稲荷神社のすぐ近くに住んでいたことがあった。北斎は90歳で没するまで常に新しい技法を試み、「冨嶽三十六景」に代表される錦絵だけではなく、肉筆画も手がけ、数多くの作品を生み出した。榛馬場の辺りに住んでいた当時の様子を伝えるのが、「北斎仮宅写生」(露木為一筆)である。絵を描く老いた北斎と娘の阿栄が描かれている。阿栄も優れた絵師であった。その暮らしぶりを飯島虚心は「蜜柑箱を少し高く釘づけになして、中には、日蓮の像を安置せり。火鉢の傍には、佐倉炭の俵、土産物の桜餅の籠、鮓(すし)の竹の皮など、取ちらし、物置と掃溜と、一様なるが如し」(「葛飾北斎伝」)と記している。北斎がこの地に暮らしたのは天保末年頃(1840年頃)で、80歳を越えていたと思われるが、絵を描くこと以外は気にも留めないような暮らしぶりが見てとれる。北斎は生涯で90回以上も転居を繰り返したとされているが、居所のすべてが正確に分かっているわけではない。榛馬場の北斎住居跡は、ある程度場所の特定ができ、絵画資料も伴うものとして貴重な例である。
また、幕末明治期に活躍した政治家勝海舟もこの近くで生まれ育った。海舟の父、勝小吉の自伝「夢酔独言」の中にも、榛稲荷神社についての想い出が記されている。勝海舟は、文政6(1823)年1月30日、本所亀沢町の父小吉の実家である男谷(おだに)家に生まれ、7歳まで育った。幼名は麟太郎という。幕臣とは言っても下級武士だったため、苦しい生活を強いられた。それでも少年時代は剣を島田虎之助に学び、向島弘福寺に参禅するという日々を送る一方、蘭学者永井青崖について蘭学兵学について学んだ。その後、弘化3(1846)年に赤坂に転居するまでは本所入江町(緑4丁目24)で暮らしていた。嘉永6(1853)年幕府に提出した開国後の方針を述べた意見書が採用され、世に出た。万延元(1860)年には、日米修好通商条約批准のため軍艦咸臨丸艦長として太平洋を横断、アメリカとの間を往復した。慶応4(1868)年3月、徳川幕府倒壊後の処理を一身に担い、新政府側の中心人物である西郷隆盛と会見しその結果、江戸城無血開城を果たして江戸の町を戦禍から救ったことは有名である。海舟は、成立間もない明治政府の土台作りにも手を貸し、参議兼海軍卿・枢密顧問官なども歴任し、伯爵となった。明治32年1月19日、77歳で病没したが、養子相続手続きの関係で秘され、21日に死去が報じられたために、官報や大田区洗足池湖畔の墓石にも21日と刻まれている。

<今日のニュース>
◆茨城震度6弱
 茨城県震度6弱を観測した。高萩市内の寺では、地震の影響で墓石の一部が倒れる被害があったほか、高萩市立君田中学校では、体育館の2階の窓ガラスが落ちて割れる被害があった。