今年の大河ドラマ「おんな城主井伊直虎」

◆群雄割拠の戦国時代に、お家断絶の危機に瀕(ひん)した井伊家の女性領主となり、かつての許嫁(いいなずけ)の忘れ形見・直政を徳川四天王へと育て上げた井伊直虎。現在の浜松市に生まれ、人生の大半をこの地で過ごしたとされるが、現存する史料が少ないこともあり、その生涯は県内でもあまり知られていない。女性の活躍が叫ばれて久しいが、その先駆けともいえる直虎の一生とはどんなものだったのか。
 直虎(生年不詳)の生きた時代は、天下人・織田信長の生涯とほぼ重なっている。平安中期から続く遠江国井伊谷(現在の浜松市北区引佐町井伊谷)の名門、井伊家22代当主直盛の一人娘として生まれ、嫡男のなかった直盛はいとこの亀之丞(後の23代直親)を直虎の許嫁とし、家督を継がせようとした。しかし、天文13(1544)年に亀之丞の父、直満が今川義元に謀反の嫌疑をかけられて自害すると、当時9歳の亀之丞も信濃国(長野県)に身を隠すことに。亀之丞との突然の離別で悲嘆に暮れた直虎は井伊家菩提寺(ぼだいじ)の龍潭寺(りょうたんじ)で出家し、2代住職の南渓和尚が「次郎法師」の僧名を与えた。南渓和尚はなぜ直虎に男性のような名前を付けたのか。江戸中期に書かれた「井伊家伝記」によると、「備中次郎」は代々井伊家総領の名で、「尼の名を付けさせたくない」と娘の出家を嘆いた両親の願いを聞き入れたためという。龍潭寺20代住職の武藤宗甫さん(61)は「井伊一族の重鎮でもあった南渓和尚は、物心両面から直虎を支え続けていた。戦国期には女性が家督を継ぐ例もあり、男勝りの気性だった直虎の将来に期待していたのでは」と推測する。
 11年後の弘治元(1555)年、成人した亀之丞は井伊谷に戻って直盛の養子となり名を直親と改めたが、出家の身となっていた次郎法師と結ばれることはなかった。井伊家は永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで直盛が戦死したことを皮切りに、23代当主となった直親が家老の讒言(ざんげん)で誅殺、直虎の曽祖父に当たる直平も戦死するなど受難が続く。唯一の希望は直親の遺児の虎松(24代直政)で、次郎法師は幼い虎松を守るため、同8年に還俗して「井伊直虎」を名乗り、女性領主となる決意を固めた。“女城主”としての直虎の活躍をしのばせるものは、わずかに残る数点の文書しかない。「次郎法師」の署名がある「井伊直虎置文(黒印状)」では、領主として龍潭寺の寺領や諸役の免除を保障。今川氏からは井伊谷での徳政令実施の圧力を受け、2年間引き延ばすことに成功したものの、同11年の「井伊直虎関口氏経連署状」で徳政令を受け入れており、井伊谷の支配権も失ったとみられる。その後、井伊谷一帯は今川・武田・徳川の勢力が次々と入れ替わる戦乱の地となり、直虎は母の暮らす龍潭寺に身を寄せ、虎松も三河国鳳来寺(愛知県新城市)に預けられた。だが、直虎は虎松を世に出す機会をじっとうかがい続けていた。徳川家康遠州支配が安定した天正2(1574)年ごろ、直虎は虎松の生母を再婚させ、虎松を松下家の養子とした。翌3年、15歳になった虎松は鷹(たか)狩りに出た家康に路傍で偶然お目見えを果たし、小姓に取り立てられることになる。しかし、「井伊家伝記」には直虎が仕立てた小袖を虎松に持たせたことが記されており、家康への出仕にも、直虎の介添えがあったことが暗に示されている。以後虎松は井伊姓を名乗ることを許され、徳川四天王の1人として井伊家再興を果たしていくことになる。

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<今日のニュース>
◆皇居で新年一般参賀
 正月 二日のきょう皇居で一般参賀が行われ、天皇陛下が「我が国と世界の人々の平安を祈ります」などとご挨拶された。天皇皇后両陛下の他 皇太子ご夫妻らが出席された。