明日からまた仕事ですね。戊辰戦争。

◆明日からまた仕事ですね。年末年始休暇が終わり、明日から仕事ですね。江戸検の勉強も本格化させていこう。

<今日のニュース>
青学大3連覇!今年度3冠達成で「サンキュー大作戦」完結。
 青学大が11時間4分10秒で総合優勝を決め、大会3連覇と年度3冠の偉業を達成した。3冠と3連覇の同時達成は箱根駅伝史上初めてで、戦後初の完全優勝(往路、復路ともにV)での大会3連覇となった。 

<今日の江戸学トピック>
◆今年は明治維新150年であり、戊辰戦争150年の年でもある。戊辰戦争150周年を迎える今年の第12回「江戸文化歴史検定」の「お題」は、「幕末・維新を駆け抜けた人びと〜新選組結成から戊辰戦争終結まで」。未曽有の国難の時代、明日の日本を夢見て疾走した人びとを取りあげられる。
戊辰戦争とは
 1868年(慶応4)戊辰の年に始まり、維新政府軍と旧幕府側との間に16か月余にわたって戦われた内戦。正月の鳥羽・伏見の戦いに勝利した政府軍は、4月江戸城を接収、上野にこもる彰義隊はじめ関東各地で旧幕府主戦派を討滅、奥羽越列藩同盟を結んで対抗する諸藩をも会津戦争を頂点に10月には帰順させた。翌年5月、最後の拠点箱館五稜郭を陥落させ、内戦は終結、明治絶対主義国家確立への途が開かれた。(出典:大辞林
鳥羽・伏見の戦い
 1868年1月27日(慶応四年1月3日)に起こった旧幕府軍および会津桑名藩兵と、薩長軍との内戦。新政府が王政復古の大号令に続く小御所会議で徳川慶喜(よしのぶ)の辞官納地を決定したのに対し、旧幕府方が挙兵、鳥羽・伏見で薩長軍と交戦。戊辰(ぼしん)戦争の発端となったが旧幕府軍の大敗に終わり、討幕派の優勢が確立した。(出典:大辞林
鳥羽伏見の戦いは、慶応4年1月3日の夕方、一発の砲声で勃発しました。まさに、150年前の今日、鳥羽伏見の戦いが始まった。旧幕府軍は、慶応4年1月2日に大坂城を進発した。老中格大多喜藩主大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とし、淀に本営を置き、そこで宿営した。翌3日、旧幕府軍は、淀からの進軍ルートは二つに分れた。一方は、淀小橋を渡り左折して鳥羽街道を北上した。率いるのは大目付滝川具挙でした。
一方、淀小橋から右折し淀堤を通り、伏見に向かいました。こちらは幕府陸軍奉行の竹中重固(たけなかしげかた)を指揮した。伏見では、伏見奉行所を本営として、会津藩兵や新撰組が集結した。これに対して、薩摩藩側は、御香宮を本営として、伏見奉行所を三方から包囲する体制を敷きました。鳥羽伏見の戦いは、鳥羽街道で勃発した。鳥羽街道を守護する薩摩藩兵に対して、大目付の滝川具挙が「通せ」と要求しますが、薩摩藩側は「通せない」と拒否し、押し問答が続いた。して、ついに夕方には、業を旧幕府軍は、強行突破する態勢をとった。これに対して、薩摩藩は、砲口を開き、旧幕府軍に向け発砲し、ついに戦端が開かれた。滝川具挙が乗馬していた馬が砲声に驚き、滝川具挙を振り落して、淀方面に逃げ去ったと言われている。一方、伏見方面でも、鳥羽での砲声が聞こえると、薩摩藩側は、伏見奉行所に向けて一斉に砲撃を開始した。こうして、鳥羽伏見の戦いが始まった。
 幕府及び旧幕府勢力は近畿を失ない薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また旧幕府は国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。また新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、東山道東海道北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始した。西日本及び東海地方では、新政府軍と佐幕派諸藩との間ではほとんど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。
 江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、慶喜江戸城を出て上野・寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した。一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保会津へ戻った。松平容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。文久の改革後、京都守護職及び京都所司代として京都の治安を担当していた会津藩松平容保及び桑名藩松平定敬は、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行い、尊王攘夷派・後の新政府の怨嗟を買っていた。また鳥羽・伏見の戦いにおいてこの両藩は旧幕府軍の主力となり、この敗北によって朝敵と認定されていた。
江戸城無血開城
 旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝海舟は、幕臣山岡鉄舟東征大総督府参謀の西郷隆盛に使者として差し向け会談、西郷より降伏条件として、徳川慶喜備前預け、武器・軍艦の引渡しを伝えられた。西郷は3月13日(同4月5日)、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。4月4日 (旧暦)(同4月26日)に勅使が江戸城に入り、「慶喜は水戸にて謹慎すること」「江戸城尾張家に預けること」等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。
奥羽越列藩同盟
 仙台、米沢をはじめとした東北諸藩に、会津討伐の命が下り、「なぜ会津が朝敵なのか。先帝孝明天皇から最も厚い信頼を受けていたのは 会津ではないか。会津が賊軍などと官軍が作った偽りにすぎない。会津は 朝敵にあらず!我らが会津を討つ道理はない。」と、仙台、米沢が強く反発した。これに他の東北諸藩も賛同、「ならば奥羽が一丸となって官軍と戦おうぞ。」と、団結の意を示した。その後、上野戦争を経て東北各藩に新政府軍の討伐が始まった。秋田戦争北越戦争と並行して、白河口の戦いが行われ会津藩は敗北。二本松の戦いでも破れ、新政府軍は23日朝に若松城下へ突入した。若松城に篭城にひと月あまり籠城したが、明治元年9月22日(11月6日)遂に降伏。若松城の籠城者数5235人(病人570人、奥女中64人、婦女子575人を含む)であった。会津藩が降伏すると庄内藩も久保田領内から一斉に退却し、9月24日新政府に降伏した。
箱館戦争
 榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力は、もはや奥羽越列藩同盟の敗色が濃い8月19日になって江戸を脱出した。8月26日仙台藩内の浦戸諸島・寒風沢島ほか(松島湾内)に寄港し、同盟軍及び大鳥圭介土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力、約2500人を収容し、10月12日に蝦夷地(北海道)へと向かった。10月26日榎本は箱館五稜郭などの拠点を占領し、12月5日に北海道地域に事実上の権力を成立させた。榎本らは北方の防衛開拓を名目として、朝廷の下での自らの蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。その後新政府軍は、明治2年4月9日江差の北、乙部に上陸する。その後、進軍され5月18日(同6月27日)、土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争終結した。

<1月3日生まれの偉人>
◆坂本 龍馬(さかもとりょうま、天保6年11月15日(1835年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日))は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔 (なおなり)。龍馬は通称。 他に才谷 梅太郎(さいだに うめたろう)などの変名がある (手紙と変名の項を参照)。土佐郷士に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公として描かれて以降、知名度を飛躍的に上げ、幕末の風雲児として国民的人気を得る。
船中八策とは、
1.天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還
2.上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設)
3.有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)
4.外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正)
5.古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定)
6.海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設)
7.御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設)
8.金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策)
 である。維新政府に参加することなく、龍馬はなくなったが、世界情勢をよく知り、近代国家日本を建設しようとしており、まさに、日本のこれからのあり様を考えていた人物であり、偉人の一人に挙げることができる。今日、龍馬は知られているが、『竜馬がゆく』により、司馬遼太郎により、国民に認知されたと言っても過言ではない。

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<今日の小池劇場>
◆小池知事 都政運営の課題は
 年明け早々、小池知事を待ち構える課題に「予算編成」があり、知事の重点政策や小池カラーが反映される。知事にとって初の予算、実現への関門は都議会で、最大会派である自民党と知事が対立する場面が散見されるだけに今年はさらなる激化が予想されるという。その山場となるのが7月22日の任期満了に伴う都議会議員選挙。知事は自らの政策を円滑に進めるため、都議会で仲間を増やしたい考えで、自らの政治塾「希望の塾」から候補者を擁立する構えを見せている。こうした中、都議会公明党自民党との決裂を宣言し、自民党内からも3人が会派を離脱するなど選挙への動きが加速している。選挙結果は知事の都政運営に影響を与えるだけに動向が注目される。そして、東京オリンピックパラリンピックをめぐって、「仮設施設」の2000億円負担に神奈川などの自治体が反発し、豊洲市場への移転問題については、専門家会議などの提言をもとに、夏ごろには移転するのかしないのか、小池知事が判断することになる。