中西 君尾。

<今日の江戸学トピック>
●「宮さん宮さん」
 ♪宮さん宮さん お馬の前に 
  ひらひらするのは 何じゃいな  
  トコトンヤレ トンヤレナ 
  あれは朝敵 征伐せよとの 
  錦の御旗じゃ 知らないか 
  トコトンヤレ トンヤレナ 
 この歌は、討幕軍の行進曲として歌われました。作詞 品川弥二郎、作曲 大村益次郎と いわれていますが、作曲は中西君尾とも。中西君尾は 勤王芸者といわれ、高杉晋作,井上聞多(井上馨),品川弥二郎ら多くの志士と関わりを持ちました。井上馨が元治1年に俗論党に襲われた時、中西君尾からもらった鏡を懐に持っていたため命拾いをしたという エピソードも残されています。彼女は近藤勇から口説かれたこともあります。その時 彼女は「 天子様の為に尽くすなら」と答えたそうである。
●中西 君尾(なかにし きみお、1844年(弘化元年)- 1918年(大正7年)2月17日)は祇園の芸妓で本名はきみ。祇園一の美貌を誇った勤王芸者。彼女は新撰組や幕末の志士らと交わした。当時、縄手通にあったお茶屋『魚品』(うおしな、後に切通しに移転し、現存せず)で高杉晋作を介して井上馨と出会い、彼が命を狙われていたとき、自分の身代わりとして鏡を渡したといわれる。案の定、井上はそれに助けられたのである。彼女も桂小五郎品川弥二郎らを助けたりして命を狙われ、新撰組に捕らえられた事がある。しかし、近藤勇によって助けられたことが何回もあり、一力のお座敷で会い口説かれた際「禁裏様のために尽してくださるお方でなければいや」と突っぱねている。君尾は品川との間に子供をもうけ、その後も祇園で芸妓を続けて大正7年(1918年)に亡くなっている。「白梅でちよと一杯死出の旅」という辞世の句を残している。