明暦の大火。

<今日の江戸学トピック>
◆明暦3年(1657)1月18日の昼ごろ、本郷円山町の本妙寺から出火した火が燃え広がり、江戸市中の大半が消失しました。明暦の大火です。江戸は前年の11月から80日間雨が降らず乾ききっており、北西の強風にあおられて燃え広がったそう。死者は10万人といわれたこの火事。恋煩いがもとで亡くなった娘の振袖の祟りが出火原因といわれる振袖火事ともいわれていますが、これは後に作られたものです。
●明暦の大火(めいれきのたいか)は、明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、明和の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる。江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。徳川家綱のときに起きたこの大火以後、江戸城天守は再建されなかった。
 火災としては東京大空襲関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。日本ではこれを、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えることもある。
 明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。御三家の屋敷が江戸城外へ転出。それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。防備上千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など、市街地が拡大した。吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。市区改正が行われた。防災への取り組みも行われた。火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。現在でも上野広小路などの地名が残っている。幕府は、防火のための建築規制を施行した。耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励した。その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。
 当時の様子を記録した『むさしあぶみ』によると、前年の11月から80日以上雨が降っておらず、非常に乾燥した状態が続いており当日は辰の刻(午前8時頃)から北西の風が強く吹き、人々の往来もまばらであったとある。
 3回の出火
1.1月18日(3月2日)未の刻(14時頃)、本郷丸山の本妙寺より出火。神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及ぶ。霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った2万人以上が犠牲となる。
2.1月19日(3月3日)巳の刻(10時頃)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火。飯田橋から九段一体に延焼し、江戸城天守閣を含む大半が焼失。
3.1月19日(3月3日)申の刻(16時頃)、麹町5丁目の在家より出火。南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至って鎮火。
 災害復旧火災後、身元不明の遺体は幕府の手により本所牛島新田へ船で運ばれ埋葬されたが、供養のために現在の回向院が建立された。また幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助、松平信綱は合議制の先例を廃して老中首座の権限を強行して1人で諸大名の参勤交代停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行って、災害復旧に力を注いだ。松平信綱は米相場高騰を見越して幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した。そのため江戸で大きな利益を得られると地方の商人が米を江戸に送ってきたため、幕府が直接に商人から必要数の米を買い付け府内に送るより府内は米が充満して米価も下がった。