今日は夕方講演会です。長谷川等伯なくなる。

<今日の江戸学トピック>
◆将軍で参勤交代をしたのは誰でしょうか。8代将軍吉宗です。将軍になる前は、紀州藩主でしたね。綱吉や家宣は館林藩主や甲府藩主でしたが、江戸に定府しており、参勤交代はしていなかったようです。実は今日の夕方「徳川将軍家」の講演会に参加しました。そこでの話ですが。また11代家斉には53人の子供がおり、養子や嫁に活かせ、幕府の財政を破たんさせたようです。また、嫁を貰う藩にも負担をさせたようです。
◆第八代将軍吉宗 
 8代将軍吉宗は、徳川御三家紀州藩第2代藩主の徳川光貞の4男に生まれる。初代家康は祖祖父にあたる。父光貞と兄二人の死後、宝永2年(1705)22歳で第5代紀州藩主を継ぎ、宝永地震で疲弊した藩財政立て直した。宝永3年に伏見宮家の真宮理子を正室に迎えるが宝永7年(1710)に死別した。吉宗はこの後二度と正室を迎えることはなかったが、正徳元年(1712)(側室・須磨(深徳院)との間に長男・長福丸(徳川家重)、正徳5年(1716)側室・吉牟(本徳院)との間に二男・小次郎(田安宗武)が生まれている。
 7代家継の死により秀忠の血をひく徳川宗家の男系男子が途絶え、6代家宣の正室・天英院の推挙により御三家筆頭の尾張家を抑えて、初の養子として徳川宗家を相続し、享保元年(1716)江戸幕府の第8代将軍に就任した。吉宗は家宣時代からの正徳の治を改め、水野忠之を老中に任命して幕政改革を始める。公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置、江戸町火消、小石川養生所、町奉行大岡忠相の登用など江戸三大改革のひとつ享保の改革を推し進めた。長男家重に将軍を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことで米将軍(八十八将軍)と呼ばれていた。これらの幕府改革で破綻財政の復興を成し遂げたことで「徳川中興の名主」と呼ばれる名君として名高い。

長谷川等伯(はせがわ とうはく、天文8年(1539年) - 慶長15年2月24日(1610年3月19日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。狩野永徳、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人である。能登国・七尾の生まれ。当初は、七尾で日蓮宗関係の仏画肖像画を描いていたが、元亀2年(1571年)頃に上洛して狩野派の画風や雪舟水墨画を学びました。千利休豊臣秀吉らに重用され、当時画壇のトップにいた狩野派を脅かすほどの絵師となり、狩野永徳の構図筆法に大和絵の画風を融合、等伯を始祖とする長谷川派も狩野派と対抗する存在となった。金碧障壁画と水墨画の両方で独自の画風を確立し、代表作『松林図屏風』(東京国立博物館蔵、国宝)は日本水墨画の最高傑作として名高い。代表作には、そのほかに『花鳥図屏風』、『枯木猿猴(こぼくえんこう)図』、『竹林猿猴図屏風』などがある。

<今日の読書>
 ・ 戊辰戦争
 ・ 江戸博覧強記

<今日の勉強>
 ・ 過去問の整理