桜田門外の変

<江戸学トピック>
◆旧暦であるが、昨3月3日には、幕末の大きな事件として、桜田門外の変が起きている。万延元年(1860)3月3日(1860年3月24日)、雪が降りしきる中、大老井伊直弼江戸城桜田門外で水戸浪士関鉄之助ら17人と薩摩浪士有村次左衛門の手によって暗殺された。井伊は駕籠で藩邸を出発、総勢60人余りの彦根藩士が隊列を組んで護衛していたにもかかわらず、井伊の首は有村らの手によって討ち取られた。安政の大獄水戸藩に下された勅諚「戊午の密勅」を朝廷に返納させたことに対する復讐であった。井伊が前日に詠んだ歌は「咲きかけしたけき心のひと房は散りての後ぞ世に匂ひける。」であり、なんとなく死を意識していたのでしょうか。
 当時、大名が無官の者に殺害された場合は領地没収という決まりがあったが、もしそうなると彦根藩水戸藩と一戦を交える勢いであったので、幕府は苦慮し、幕府の段取りは「井伊掃部頭は暴漢に襲われて負傷したため屋敷で病気療養中」と発表してお茶を濁し、三月十日に側室の子直憲(なおのり)を跡取りと定め、そして四月一日に死亡を発表させた。この事件で彦根藩は35万石から25万石に減封され、京都守護職も剥奪された。彦根藩は幕府を守るという譜代大名から距離をおき八年後に始まった戊辰戦争では初めから勤皇方に身をおいた。井伊家の先祖である井伊直政徳川四天王だったことからみると、不思議であり、この桜田門外の変の件から幕府から見放されたことが要因の一つかもしれない。
 <参考>
井伊直政は1561年に、遠江国(今の静岡県西部)の井伊谷という場所で生まれた。井伊家の24代目当主として徳川家康の家臣として活躍し、後に徳川四天王の一人に数えられている。直政が生まれた頃の井伊家は、主君である今川家によって父、井伊直親が殺されてしまうなど、滅亡寸前の状態にあんた。この状態を救ったのが大河ドラマ「おんな城主直虎」のヒロインである井伊直虎で、直政は直虎の養子となる形で1582年に井伊家を継ぐことになあた。その後の直政は、徳川家の中でも最も強いと言われた「井伊の赤備え」という部隊を率い、家康の天下取りに貢献していった。その勇猛果敢ぶりは敵軍には恐れられており、また部下にも厳しかったことから「井伊の赤鬼」と呼ばれ、恐れられた。井伊直政と言えば、特に、家康の家臣の中で外交手腕に長け、関ヶ原の戦いの前は全国の大名に調略を行い、多くの武将を東軍に参加させる事に成功した。

◆明和8年(1771)3月4日、杉田玄白前野良沢らが、千住小塚原ので行なわれた死刑囚の腑分けに参加。持参した医書『ターヘルアナトミア』の正確さに驚き、同書の翻訳を決意しました。

<今日の読書>
・ 開国・維新
・ 図解幕末維新
・ 徳川15代
・ 遊女と吉原の歴史
・ 博覧強記
  博覧強記を中心に精読しながら、あわせて何冊も同時進行的に読んでいる。

<今日の勉強>
・ 過去問の整理
・ 年号等の暗記