今日で6月も終わり。

◆江戸検まであと4カ月。まさに追い込みの時期を迎える。この7月にどれだけ本がよめるかが大きな課題。直前3カ月がまさに運命を判断するものであり、これからの暑い戦いを乗り切っていこう。

◆「池上線」について
 来なくなった理由は、恋愛が破綻したからです。この歌詞上では女性の方が振られたので、「送って来た彼は、もう来ない。」のです。ただ、実話(作詞者の経験)と、歌詞では男と女が入れ替わっています。「作詞者(佐藤氏)が国連の職員になるのを目指していて、語学習得?のためにアメリカ(ハワイ)へ留学したのです。ところが、日本に残っていた彼女から『遠距離恋愛に耐えられないから別れたい。』と言う手紙が来た。それで慌てて日本に帰って彼女に会いに行ったが、結局は別れることに成った。」と言う歌の裏側のストーリーが、15年ほど前?に朝日新聞の日曜版に書かれていました。

<今日の江戸学トピック>
◆今日は6月最後の日。夏越の祓です。年末の大祓同様、罪や穢れをはらい清める神事として古くから行なわれていた旧暦の神事です。宮廷では親王以下百官が集まり祝詞がよまれたそう。現在でも受け継がれている茅の輪くぐりは宮廷行事から伝わりました。

アーネスト・サトウ「当時の私たちは一語も英語を知らぬその国の人間を相手にして勉強したのだ。文章の意味を知る方法は、小説家のポーの『黄金虫』の中の暗号文の判読について述べているのと、ほとんど同様のものであった」
 サー・アーネスト・メイソン・サトウ(英語: Sir Ernest Mason Satow、枢密顧問官、GCMG、1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、初代駐日大使となった。イギリスにおける日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助(または薩道愛之助)。
 サトウは高校時代に「エルギン卿遣日使節録」で日本を知り、「ペリー遠征記」を読み、イギリス外務省に入り、あこがれの日本に渡った。幕末から明治にかけての1862年から1883年(一時帰国)と、イギリス駐日公使としての1895年から1900年までの、合計25年間の日本滞在となる。この激動の時代に、多くの英雄に会っている。そして、以下のように彼らの人物評を残しており、興味深い。
「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしているが、しゃべるときの微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった」(西郷隆盛と面会した時の感想)。
「結局江戸を政治の中心とし、その名を東京(トウキョウ)、すなわち東の都と改称することに決定したのだが、それには大久保(利通)の影響力が大きかったことを私は疑わない」(薩英戦争では通訳として活躍)
「イギリスの議会制度は、京都における侍階級の指導者連中、ことに後藤象二郎などが大いに興味を持った問題であった。日本の新政府の基礎を代議制度の上におくことが、彼らの希望だったからである」
小松帯刀は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり、態度が人にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた」
「伊藤(博文)には、英語が話せるという大きな利点があった。これは、当時の日本人、ことに政治運動に関係している人間の場合にはきわめてまれにしか見られなかった教養であった」(長州ファイブといわれていた伊藤博文井上馨が、急遽ヨーロッパ留学から日本に戻る時には、サトウが長州まで送り届けた。下関戦争の長州藩との講和交渉では高杉晋作を相手の通訳をつとめた)
「勝(海舟)は、将軍家の崩壊以来、常にわれわれに政治情報を提供してくれた大いにありがたい人だった」