島津久光。黄門忌。 (2167日間継続中)

◆一日デスクワーク。年末に入り資料整理に着手。不要な資料はシュレッダーへ。

<今日12月6日が命日の江戸時代人>
島津久光(文化14年10月24日(1817年12月2日)〜明治20年(1887年)12月6日)
 幕末の薩摩(さつま)鹿児島藩島津斉彬(なりあきら)の異母弟で,斉彬を継いだ忠義の実父。藩主となった忠義の後見役〈国父〉として藩政の実権を握った。藩内における権力拡大の過程では、小松清廉(帯刀)や中山中左衛門等とあわせて、大久保利通税所篤伊地知貞馨(堀仲左衛門)・岩下方平・海江田信義吉井友実等、中下級藩士で構成される有志グループ「精忠組」の中核メンバーを登用する。ただし、精忠組の中心であった西郷隆盛とは終生反りが合わず、文久2年(1862年)の率兵上京(後述)時には、西郷が無断で上坂したのを責めて遠島処分(徳之島、のち沖永良部島に配流)にし、藩内有志の嘆願により元治元年(1864年)に西郷を赦免する際も、苦渋の余りくわえていた銀のキセルの吸い口に歯形を残したなどの逸話があるように、のちのちまで両者のあいだには齟齬があった。急進派と佐幕保守派の両者を排して朝廷と幕府との間を妥協させようとする公武合体派の中心人物であり、その立場から1862年寺田屋事件倒幕派志士を弾圧し、さらに勅使大原重徳を擁して江戸に向かい幕政の改革を行った。文久2年(1862年)、公武合体運動推進のため兵を率いて上京する(3月16日鹿児島発、4月16日京都着。朝廷・幕府・雄藩の政治的提携を企図する久光の運動は、亡兄・斉彬の遺志を継ぐものとされた。京都滞在中の4月23日、伏見(現京都府京都市伏見区)の寺田屋に集結した有馬新七ら自藩の尊攘派過激分子を粛清する寺田屋事件を起こす。朝廷に対する久光の働きかけにより5月9日、幕政改革を要求するために勅使を江戸へ派遣することが決定され、勅使随従を命じられる。幕府への要求事項として、以下の「三事策」(1.は長州藩、2.は岩倉具視、3.は薩摩藩の各意見を採用したもの)が決められた。
1.将軍・徳川家茂の上洛
2.沿海5大藩(薩摩藩長州藩土佐藩仙台藩加賀藩)で構成される五大老の設置
3.一橋慶喜将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽大老職就任
 出府に先立って5月12日、通称を和泉から三郎へと改めた上で、21日に勅使・大原重徳に随従して京都を出発、6月7日に江戸へ到着する。当地において勅使とともに幕閣との交渉に当たり、7月6日に慶喜将軍後見職、9日に春嶽の政事総裁職の就任を実現させる(文久の改革)。

<今日の江戸学トピック>
◆今日は黄門忌。元禄13年(1700)12月6日、水戸2代藩主徳川光圀が亡くなりました。73歳。徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。殉死を禁止し、儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。
●権の中納言に就き、中納言唐名が「黄門」であることから、水戸黄門として知られるようになった。朝廷の官制はもともとは唐の律令制にならってつくられたもので、その中国では門下省(これが漢の時代には黄色い門であったと言います)という役所の次官の役名が「黄門侍郎(黄色い門の内で仕事をする人という意味)」である。中納言太政官の次官にあたり、その職が黄門侍郎に相当するところから、黄門と呼ばれた。
●有力な大名家の後継ぎは、元服に際して将軍の名前の一字を貰い受ける慣例になっていた。光圀が元服したときの将軍は、光圀とは従兄弟にあたる家光である。ただし、家光は従兄弟である光圀よりも一世代年上で、光圀の父頼房と同年代であった。頼房と家光が叔父甥の関係であるが、同年代でもあり、家光からの信頼は厚かったようである。光圀は、家光の「光」の字を許され光国という名前となった。(後に「国」の字を「圀」に改名した。)ちなみに、「御三家」(尾張家、紀伊家、水戸家)の”二代目”は、家光から偏諱を許されて「光」の字を名前(諱と言います)に付け、光友(尾張家)、光貞(紀伊家)、光国(後に光圀)といわれ、その他にも有力な大名は、軒並み「光○」という名前だった。これが、家綱の時代になると「綱○」、綱吉の時代になると「吉○」という名前になった。(「綱吉」は家綱から偏諱を許されての名前、「吉宗」は綱吉から偏諱を許されての名前である。)
・光圀(当時は光国)が水戸徳川家の当主となったときの将軍は家綱。その家綱が亡くなる際、時の権力者だった大老酒井忠清(「下馬将軍」とも称されていました)は、家綱の後継者に有栖川宮幸仁親王を擁立しようとしたとされている。光圀(光国)はこれに反対し、家綱の弟である綱吉を後継に推した。つまり新将軍綱吉にとっては、光圀(光国)は”恩人”に当たるわけであるが、後に両者は対立した。その原因の一つになっていたのが、”今度は”綱吉の後継問題。男子を夭折させ、後継ぎを失った綱吉は、自分の娘鶴姫の婿である紀伊家の綱教を後継者にしたいと願っていた。ところが、光圀は”筋目”を重視し、綱吉の兄の子である甲府綱豊(後の家宣)を後継者に推します。綱豊(後の家宣)を後継にと推した光圀は、綱吉の後継問題が決まる前に亡くなっているが、ところが、綱吉が後継にと願った綱教も亡くなってしまい、結局綱吉の後継は綱豊となった。(そして「家宣」と改名して江戸城西の丸に入った。)
 また、光圀は、「生類憐みの令」に反対し、犬で作った毛皮を綱吉に献上したと伝えられている。光圀の生きた時代の将軍は家光、家綱、綱吉の三人。そのうちで光圀が水戸徳川家の当主として仕えたのは家綱、綱吉の二代。

寛永10年(1633)12月6日、徳川忠長が亡くなりました。28歳。2代将軍秀忠の3男で、兄の3代将軍家光と同様、江の息子。両親の寵愛を受け家光と将軍の座を争いましたが、家光の乳母春日局の大御所家康への直談判により、将軍の座は家光へ。甲府藩主より駿河藩主となり従二位権大納言になり、駿河大納言とよばれました。しかし乱行を理由に改易、上野国高崎に幽閉され、家光の命令で自害させられた。