大村 益次郎

<今日12月7日が命日の江戸時代人>
◆大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政7年5月3日(1824年5月30日)〜 明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。日本の近代的軍制の創始者維新の十傑の一人に数えられる。
 周防国吉敷郡鋳銭司村字大村に医者村田孝益の長男として生れ、のち慶応1 (1865) 年蔵六と改称。緒方洪庵,P.シーボルトについてオランダ医学を学ぶ。兵学を修め、宇和島藩御雇となったのち、宇和島藩伊達宗城の推挙で幕府の蕃書調所に仕え、さらに講武所で教授を歴任。たが,長州藩に呼び戻され,同藩の兵制改革に力量を発揮。慶応2(1866)年長州戦争には石見口の総参謀として幕府軍を壊滅させた。同4年1月,戊辰戦争が起こると,討幕軍として上洛した。維新政府の軍防事務局判事加勢を命ぜられ,軍政事務を担当,同年閏4月江戸に出て,上野彰義隊討伐,奥羽・北越の平定作戦に携わった。 総合的な視点で戦局を捉え,軍略は戦う前から必勝の成算をうかがわせるものがあった。西郷隆盛は大村の軍が進まないのをみて,部下将士のすすめるままに兵を率いて東上し戦地平定を申し出た。大村は西郷を諫め西郷の青森到着前に五稜郭が陥落。西郷は,大村の卓見に感服し,「我誤てり面を合はすに恥づ」とそのまま帰郷。明治2 (69) 年,兵部大輔となり,諸藩混成の士族的御親兵を国民的な近代軍隊へ改組するため、フランス陸軍、イギリス海軍を模範として一連の兵制改革を行なったが,旧士族の反感を買い、9月4日京都の止宿先で襲われ、刺された傷がもとで大阪の病院で死亡。