専行院(お美代の方)

≪今日の江戸検・江戸時代の女性たち≫
 ●お美代は誰の側室でしょうか。
 <正解>第11代将軍・徳川家斉の側室。(博覧強記P−93)
 ◆専行院(せんこういん、寛政9年(1797年) - 明治5年6月11日(1872年7月16日))は、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の側室。俗名は美代(伊根とも)。父は内藤造酒允就相、養父が中野清茂とあるが、真の実父は中山法華経寺の智泉院の住職で破戒僧の日啓とされている。はじめ駿河台の中野清茂の屋敷へ奉公に上がったが、清茂は美代を自身の養女として大奥に奉公させ、やがて美代は将軍家斉の側室になり、文化10年(1813年)3月27日に溶姫、文化12年(1815年)10月16日に仲姫、文化14年(1817年)9月18日に末姫を産んだ。仲姫は夭折したが、溶姫は加賀藩主前田斉泰、末姫は安芸国広島藩主浅野斉粛へ嫁入りした。家斉の寵愛が深く天保7年(1836年)、家斉にねだって感応寺を建てさせ将軍家の御祈祷所にした上、実父の日啓を住職にさせることに成功している。この感応寺では大奥の女性達が墓参りと称して寺を訪れ、若い坊主と遊興に耽っていたとされる。また前田斉泰に嫁いだ溶姫との間には前田慶寧が誕生したが、大奥での権勢を固めたい美代は家斉に慶寧をいずれ将軍継嗣にして欲しいとねだり、家斉の遺言書を偽造したとまでいわれている。家斉死去後は、落飾し、専行院と号して二の丸に居住した。慶寧の伯父(溶姫の異母兄)である12代将軍・徳川家慶が政治を行うようになると、老中首座の水野忠邦天保の改革を開始し、手始めに大御所時代に頽廃した綱紀の粛正に乗り出し、寺社奉行阿部正弘に命じ、感応寺、智泉院の摘発を行い、住職であった日啓は捕縛され、遠島に処された(刑執行前に獄死)。このとき専行院は、西の丸大奥筆頭女中だった花園とともに押込になり、養父・中野清茂も連座して押込を申し渡された。専行院のその後について、三田村鳶魚は「江戸城から追放され、娘の溶姫の願いで本郷の加賀前田家屋敷に引き取られた」とし、広く信じられてきたが、それを裏付ける史料はない。一方で三田村鳶魚天璋院付きの御中臈だった村山ませ子から聞き取ったところによれば、「二の丸にいて、文恭院(家斉)のお位牌を守っていた」ということで、こちらには、少なくとも文久2年(1862年)、徳川家茂の代まで江戸城大奥二の丸に健在だったとみられる傍証がある。

<今日の江戸学トピック>
文久2年(1862)1月15日、老中安藤信正(磐城平藩)が登場途中、坂下門外で尊攘派の水戸浪士ら6人に襲われ負傷。坂下門外の変が起きた。桜田門外の変大老井伊直弼が暗殺された後、老中久世広周と共に幕閣を主導した信正は、直弼の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため公武合体を推進した。この政策に基づき、幕府は和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷派志士らはこれに反発、信正らに対し憤激した。一人の浪士が駕籠をめがけてピストルを発射しましたが、2年前の桜田門外の変以降、警護が厳重となっていて、大事には至らなかったそう。将軍家茂と孝明天皇の妹和宮を結婚させ公武合体をすすめる信正に反対の尊皇派によるものでした。
坂下門外の変
1.文久2 老中が坂下門外で襲われました 誰でしょう・・・安藤信正
2.襲ったのは誰・・・水戸浪士6名
3.老中は 井伊直弼亡き後、公武合体に力を注いできました。「和宮の降嫁」を進めてきたが、坂下門外の変により、老中を退任した。
4.この老中はどこの藩主ですか・・・磐城平藩(5万石)
5.この老中とともに 公武合体を推し進めた老中は・・・久世広周
 坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)は、文久2年1月15日(1862年2月13日)に、江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正(磐城平藩)を襲撃し、負傷させた事件。桜田門外の変大老井伊直弼が暗殺された後、老中久世広周と共に幕閣を主導した信正は、直弼の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため公武合体を推進した。この政策に基づき、幕府は和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷派志士らはこれに反発、信正らに対し憤激した。万延元年(1860年)7月、水戸藩の西丸帯刀・野村彝之介・住谷寅之介らと、長州藩桂小五郎松島剛蔵らは連帯して行動することを約し(丙辰丸の盟約・成破盟約・水長の盟約)、これに基づき信正暗殺や横浜での外国人襲撃が計画された。しかし、長州藩内では長井雅楽公武合体論が藩の主流を占めるようになり、藩士の参加が困難となった。長州側は計画の延期を提案したが、機を逸することを恐れた水戸側は長州の後援なしに実行することとした。文久2年(1862年)1月15日午前8時頃、信正老中の行列が登城するため藩邸を出て坂下門外に差しかかると、水戸藩浪士・平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎、下野の医師・河野顕三、越後の医師・河本杜太郎の6人が行列を襲撃した。信正は背中に軽傷を負って一人城内に逃げ込んだ。桜田門外の変以降、老中はもとより登城の際の大名の警備は軒並み厳重になっており、当日も供回りが50人以上いたため、浪士ら6人は暗殺の目的を遂げることなく、いずれも闘死した。

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