阪神・淡路大震災から23年。中西 君尾

阪神・淡路大震災から23年を迎え、地震発生時刻の午前5時46分には各地で黙祷が捧げられた。平成7(1995)年1月17日午前5時46分、兵庫県の淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の直下型地震が起こりました。淡路島、神戸市、芦屋市、西宮市では震度7を記録。6434人が死亡、4万3792人が負傷、約25万棟の住宅が全半壊しました。神戸市長田区では2日間の延焼したり、中心部の被害は甚大なものでした。また死者の8割は圧死によるものでした。

<今日の江戸学トピック>
●「宮さん宮さん」
 ♪宮さん宮さん お馬の前に 
  ひらひらするのは 何じゃいな  
  トコトンヤレ トンヤレナ 
  あれは朝敵 征伐せよとの 
  錦の御旗じゃ 知らないか 
  トコトンヤレ トンヤレナ 
 この歌は、討幕軍の行進曲として歌われました。作詞 品川弥二郎、作曲 大村益次郎と いわれていますが、作曲は中西君尾とも。中西君尾は 勤王芸者といわれ、高杉晋作,井上聞多(井上馨),品川弥二郎ら多くの志士と関わりを持ちました。井上馨が元治1年に俗論党に襲われた時、中西君尾からもらった鏡を懐に持っていたため命拾いをしたという エピソードも残されています。彼女は近藤勇から口説かれたこともあります。その時 彼女は「 天子様の為に尽くすなら」と答えたそうである。
<江戸検・江戸の女性たち>
●中西 君尾(なかにし きみお、1844年(弘化元年)- 1918年(大正7年)2月17日)は祇園の芸妓で本名はきみ。祇園一の美貌を誇った勤王芸者。彼女は新撰組や幕末の志士らと交わした。当時、縄手通にあったお茶屋『魚品』(うおしな、後に切通しに移転し、現存せず)で高杉晋作を介して井上馨と出会い、彼が命を狙われていたとき、自分の身代わりとして鏡を渡したといわれる。案の定、井上はそれに助けられたのである。彼女も桂小五郎品川弥二郎らを助けたりして命を狙われ、新撰組に捕らえられた事がある。しかし、近藤勇によって助けられたことが何回もあり、一力のお座敷で会い口説かれた際「禁裏様のために尽してくださるお方でなければいや」と突っぱねている。君尾は品川との間に子供をもうけ、その後も祇園で芸妓を続けて大正7年(1918年)に亡くなっている。「白梅でちよと一杯死出の旅」という辞世の句を残している。

《きょうの京都通》
京都御所の紫宸殿を移した建物はどれか。
 ア、大覚寺・宸殿  イ、仁和寺・金堂  ウ、南禅寺・方丈  エ、毘沙門堂・宸殿
<解答>  イ、仁和寺・金堂  
<解説>  仁和寺・金堂は、京都御所の正殿として慶長18 ( 1613 ) 年に建立された紫宸殿が、江戸初期の寛永年間に行われた仁和寺の再建時に移築され、本尊の阿弥陀三尊像を祀る本堂となった。その後、御所にある紫宸殿は何度か焼失したため、現存する最古の紫宸殿の遺構とされる。大覚寺・宸殿は御所の東福門院使用の建物が移されたものであり、南禅寺・方丈も御所の建物が移築されたものであり、毘沙門堂・宸殿も御所の後西天皇旧殿を移築したものである。(3級)