實成院。明暦の大火。

≪今日の江戸検・江戸時代の女性たち≫
●家茂の実母は誰でしょう。
<正解>實成院

◆實成院(じつじょういん、文政4年1月18日(1821年2月20日) - 明治37年(1904年)11月30日)は、御三家紀州藩藩主徳川斉順の側室で江戸幕府14代将軍徳川家茂の生母。名前は美佐(みさ)、操子。美喜、於美喜の方とも[1]。
 生家は紀州藩高家で、石高1000石の桜井松平家血統の久松松平家である。同家は遠江国浜松藩主松平忠頼の三男で、松平定勝の養子となった松平忠勝(長七郎)が駿府城にいた頃の徳川頼宣に引き取られて創始された家で、忠勝はその後、暇を貰って山城国に閑居する。2代目の重之(源兵衛)は明暦元年(1655年)に切米200石で召しだされて、後に紀州藩の寄合組高家之列となる。安永5年(1776年)に同じ久松系の松平図書家とともに高家に列する。文化7年(1810年)の「家中官録人名帳」に『1000石 高家上座 松平六郎右衛門』とある。家紋は葵、九曜紋。4代目の忠英(六郎右衛門)は紀州藩大番頭、1000石に昇進。7代目で、実成院の兄である庸(織部)の代で、家茂の伯父であるために3000石に加増され、実成院が江戸城に引き取られると、これに同行して3000石の江戸幕府旗本に転属して幕府新番頭に就任し、織部正を称する。他方で、紀州藩に残った庸の弟の忠寛(六郎右衛門、祐吾、実成院との兄弟姉妹順は不詳)は兄が旗本に転属すると新規に召し出されて1000石および紀州藩寄合、代々高家之列となり、大番頭に昇進。しかし、第二次長州征伐で出陣し、石見国において長州藩に敗北した責任を取らされて減石となり、やけになった忠寛は淫酒放蕩にふけり没落した(以上は『南紀徳川史・第五冊』より)。
 文政4年(1821年)に松平六郎右衛門晋の子として生まれ、天保3年7月1日(1832年)に紀州徳川家にお次召出しとなり、側詰となり、天保5年(1834年)に中臈となって後に藩主徳川斉順の側室となる。天保14年8月28日(1843年)に伊曾姫を出産し、同年11月24日に若年寄格となるが、天保15年(1844年)に伊曾姫は夭折する。その後、弘化2年(1845年)に斉順の正室の豊姫が、弘化3年(1846年)5月には斉順も死去する。しかし、その年のうちに江戸赤坂の紀州藩邸で菊千代(のちの慶福・家茂)を生む。俗に「紀州蜜柑に種が有る」といわれる。しかし、そのときには既に斉順は没しており、後継の徳川斉彊の命で、菊千代の養育のため剃髪預かりになる。斉彊が没し、菊千代が斉彊を継いで数え4歳で13代藩主となり、元服して慶福と名を改め家督を継ぐと、落飾して実成院の院号を名乗った。安政5年(1858年)、慶福が14代将軍家茂として13歳で江戸城に入ると、文久元年2月16日から18日(1861年)に実成院も将軍生母として兄の庸とともに江戸城本丸に引き取られ、大奥に入った。
 将軍生母の住まいである新御殿には先代将軍家定生母本寿院が、御台所御殿には先代将軍家定御台所天璋院が居住していたため、実成院は七宝の間に居住した。それまで七宝の間に居を構えていた御年寄・瀧山は実成院の入居に伴い、七宝の間から鶴の間に移動した。文久2年(1862年)には仁孝天皇皇女で孝明天皇皇妹の和宮を家茂の正室として江戸城に迎え入れる。実成院は派手好きで、朝から酒を飲み、乱痴気騒ぎを起すこともあったという。慶応2年(1866年)に家茂が大坂城で21歳で没した後も江戸城に居住し、慶応4年(1868年)に官軍による江戸開城にともない、静寛院宮(和宮)とともに田安徳川家の屋敷に移った。明治37年(1904年)に東京千駄ケ谷紀州徳川邸において84歳で死去。

<今日の江戸学トピック>
◆明暦3年(1657)1月18日午後2時ごろ、本郷丸山町の本妙寺から出火した火が江戸市中を焼き尽くしました。明暦の大火です。火は北西の風にあおられ、本郷、湯島、駿河台に延焼、夕方には風向きが変わり、鎌倉河岸から、茅場町、八丁堀、そして佃島までの下町一帯を焼き尽くし、19日には伝通院近くから出火、神田から京橋あたりまで延焼、途中江戸城に飛び火、天守、二の丸、三の丸を焼き、夕刻には麹町の町屋から出火、日比谷、愛宕、芝方面まで火の手が延びました。20日には鎮火しましたが、大名・旗本屋敷1270、町屋約400町、死者は10万人余りの大惨事となりました。恋煩いがもとで亡くなった娘の振袖の祟りが出火原因といわれる振袖火事ともいわれていわれているが、これは後に作られたもの。3日間かけて江戸の町を焼き付くし、10万人の犠牲者を出した日本史上最悪の都市火災である。江戸は防災、減災を念頭に大きく作り替えられていった。

●明暦の大火(めいれきのたいか)は、明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、明和の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる。江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。徳川家綱のときに起きたこの大火以後、江戸城天守は再建されなかった。 火災としては東京大空襲関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。日本ではこれを、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えることもある。
 明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。御三家の屋敷が江戸城外へ転出。それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。防備上千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など、市街地が拡大した。吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。市区改正が行われた。防災への取り組みも行われた。火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。現在でも上野広小路などの地名が残っている。幕府は、防火のための建築規制を施行した。耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励した。その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。
 当時の様子を記録した『むさしあぶみ』によると、前年の11月から80日以上雨が降っておらず、非常に乾燥した状態が続いており当日は辰の刻(午前8時頃)から北西の風が強く吹き、人々の往来もまばらであったとある。
 3回の出火
1.1月18日(3月2日)未の刻(14時頃)、本郷丸山の本妙寺より出火。神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及ぶ。霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った2万人以上が犠牲となる。
2.1月19日(3月3日)巳の刻(10時頃)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火。飯田橋から九段一体に延焼し、江戸城天守閣を含む大半が焼失。
3.1月19日(3月3日)申の刻(16時頃)、麹町5丁目の在家より出火。南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至って鎮火。
 災害復旧火災後、身元不明の遺体は幕府の手により本所牛島新田へ船で運ばれ埋葬されたが、供養のために現在の回向院が建立された。また幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助、松平信綱は合議制の先例を廃して老中首座の権限を強行して1人で諸大名の参勤交代停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行って、災害復旧に力を注いだ。松平信綱は米相場高騰を見越して幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した。そのため江戸で大きな利益を得られると地方の商人が米を江戸に送ってきたため、幕府が直接に商人から必要数の米を買い付け府内に送るより府内は米が充満して米価も下がった。

《きょうの京都通》
京都御所の紫宸殿を移した建物はどれか。
 ア、大覚寺・宸殿  イ、仁和寺・金堂  ウ、南禅寺・方丈  エ、毘沙門堂・宸殿
<解答>  イ、仁和寺・金堂  
<解説>  仁和寺・金堂は、京都御所の正殿として慶長18 ( 1613 ) 年に建立された紫宸殿が、江戸初期の寛永年間に行われた仁和寺の再建時に移築され、本尊の阿弥陀三尊像を祀る本堂となった。その後、御所にある紫宸殿は何度か焼失したため、現存する最古の紫宸殿の遺構とされる。大覚寺・宸殿は御所の東福門院使用の建物が移されたものであり、南禅寺・方丈も御所の建物が移築されたものであり、毘沙門堂・宸殿も御所の後西天皇旧殿を移築したものである。(3級)