静寛院宮.

≪今日の江戸検・江戸時代の女性たち≫
●静寛院宮とは誰でしょう?
<正解>和宮

◆静寛院宮(せいかんのみや)没年:明治10.9.2(1877)・生年:弘化3.閏5.10(1846.7.3)
 江戸幕府14代将軍徳川家茂の妻。仁孝天皇の第8皇女。孝明天皇の妹。母は典侍橋本経子(観行院)。幼称は和宮。諱は親子。嘉永4(1851)年有栖川宮熾仁親王と婚約したが,万延1(1860)年内憂外患に苦慮する幕府が幕権回復(「公武合体」)のため皇女降嫁を奏請したことから運命が一変した。孝明天皇の反対などによって紆余曲折を経たものの2年後に降嫁。これに先立ち,内親王宣下を受ける。江戸城大奥での生活は,生活習慣の違い,皇女という立場,天璋院(徳川家定御台所,家茂の養母)との不和,さらに政局の影響などもあって苦労が多かったという。慶応2(1866)年家茂の死去により薙髪して静寛院と号した。家茂哀悼の和歌「空蝉の唐織ごろもなにかせむ綾も錦も君ありてこそ」は有名だが,偽作との説もある。その後,宮の帰京が議せられるなか朝幕開戦となり,徳川家の存続を朝廷に嘆願した。明治2(1869)年京都に帰住するが,5年後再び東京へ移居。脚気衝心により療養先の箱根で没した。墓所は芝増上寺。<参考文献>武部敏夫『和宮』,『静寛院宮御日記』)

<今日の江戸学トピック>
◆明治32(1899)年1月19日、勝海舟が亡くなりました。77歳。貧しい御家人の子として生まれましたが、蘭学兵学、長崎で航海術を学び、咸臨丸の艦長として渡米。帰国後は神戸海軍操練所を開き、坂本龍馬らを育成ました。戊辰戦争江戸城総攻撃を前に、官軍の西郷隆盛と会見して無血開城を実現。維新後は枢密院顧問などを歴任した。

勝海舟(かつかいしゅう・没年:明治32.1.19(1899)・生年:文政6.1.30(1823.3.12)
 名は義邦,通称は麟太郎。昇進して安房守を称したが明治維新後に安芳と改称し、さらにこれを戸籍名とした。海舟は号。下級幕臣の長男として江戸に生まれた。父左衛門太郎(小吉)は自伝『夢酔独言』で知られる。従兄に剣聖男谷精一郎。剣術に続けて西洋兵学を究めるため蘭学に志し、ペリー来航時には江戸で有数の蘭学兵術家だった。安政2(1855)年から幕府の長崎海軍伝習に参加してペルス=ライケンやカッテンデイケの教えを受けた。安政6年帰府すると軍艦操練所教授方頭取。万延1(1860)年には咸臨丸の事実上の艦長として太平洋を横断。文久2(1862)年幕政改革の一環として軍艦奉行並に抜擢された。翌3年4月には将軍徳川家茂の大坂湾視察を案内して神戸海軍操練所設立許可を取り付け、これを幕府と西南諸藩「一大共有之海局」に仕立て,さらに欧米の侵略に抵抗する東アジアの拠点に育て上げようとの構想を持った。元治1(1864)年5月神戸操練所発足とともに正規の軍艦奉行に昇ったが,同年7月の禁門の戦争以降の幕権保守路線に抵触して10月には江戸への召還命令に接し、戻ると罷免されて寄合入りした。慶応2(1866)年第2次征長戦争に際して軍艦奉行に復任し,会津・薩摩間の調停や長州との停戦交渉に当たる。明治1(1868)年鳥羽伏見で敗れた徳川慶喜の東帰後は陸軍総裁に昇り軍事取扱に転じて旧幕府の後始末に努め、東征軍の江戸総攻撃予定日の前夜に西郷隆盛と談判して戦闘回避に成功した。一時は徳川家と共に駿府(静岡)に移ったが、新政府の相談に与って東京に出ることが多く、5年には海軍大輔、6年10月の政府大分裂のあとは参議兼海軍卿に任じた。しかし翌7年の台湾出兵に不満で辞任し、以後明治10年代にかけては完全に在野で西郷隆盛復権の運動などにかかわった。20年伯爵、21年枢密顧問官。明治政府の欧米寄りを批判し続けて清国との提携を説き、日清戦争には反対だった。足尾鉱毒事件を手厳しく批判し田中正造を支援した。<参考文献>石井孝『勝海舟』,松浦玲『明治の海舟とアジア』

《きょうの京都通》
●安産祈願の神社として知られ、またげ石があるのはどこか。
 ア、御香宮神社  イ、月読神社  ウ、わら天神  エ、梅宮大社
<解答>  エ、梅宮大社  
<解説> 梅宮大社は、当初、県犬養三千代 ( あがたいぬかいみちよ ) が祀っていたのを、のちに山城国相楽郡に移し、仁明天皇 ( 在位833〜850 ) の御代に檀林皇后が橘氏氏神として現社地に社殿を造営したと伝えられる。その後 『 延喜式 』 で名神大社に列し、平安中期以降の二十二社奉幣社の一つにも加えられ、松尾大社とともに洛西で栄えたが、橘氏の没落とともに次第に衰退した。酒解神 ( さけとけのかみ ) の別名をもつ大山祗神 ( おおやまつみのかみ ) を祭神としていることから酒造家の信仰が厚い。さらに ご祭神の一柱である木花咲耶姫命 ( このはなさくやひめ ) は、瓊ヶ杵尊 ( ににぎのみこと ) の皇后に立ち、無戸室の燃えさかる中で彦火火出見尊 ( ひこほほでみのみこと ) を無事に産んだことから、古来、血統存続守護の神として信仰されてきた。檀林皇后も特に祈願して仁明天皇を御懐妊し、この時にまたげ石をまたいだという言い伝えがあることから、安産祈願の社としても広く信仰を集めている。伏見にある御香宮神社も安産祈願のご利益があり、境内に月延石がある月読神社も安産祈願のご利益があり、木花咲耶姫命を祀るわら天神も安産祈願のご利益がある。(3級)