林 羅山

<今日の江戸学トピック>
◆明暦3年(1657)1月23日、儒学者林羅山が亡くなった。幕府儒官林家の祖で、家康から家綱まで4代にわたり侍講としてつかえた。た。22歳で藤原惺窩に朱子学を学びました。徳川家康、秀忠、家光、家綱の侍講としてつかえ、外交文書や諸法度の起草にあたり、上野忍岡に私塾(昌平黌の前身)や孔子廟をたて、林家が幕府の教学をになう基礎をつくった。羅山は明暦の大火により、神田の本邸の文庫を焼失。落胆して病に床に伏し、大火から4日後に亡くなりなった。

●林 羅山(はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))は、江戸時代初期の朱子学儒学者。林家の祖。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。羅山は、独学を進めるうちに、いっそう朱子学宋学)に熱中していき、慶長9年(1604年)に藤原惺窩(せいか)と出会う。それにより、精神的、学問的に大きく惺窩の影響を受けることになり、師のもとで儒学ことに朱子学を学んだ。惺窩は、傑出した英才が門下に加わったことを喜び、羅山に儒服を贈った。羅山の英明さに驚いた惺窩は、自身は仕官を好まなかったので、翌慶長10年(1605年)には羅山を推挙して徳川家康に会わせた。羅山が家康に謁見したのは京都二条城においてであった。家康は、羅山の才を認められ、23歳の若さで家康のブレーンの一人となった。慶長12年(1607年)、家康の命により僧形となり、道春と称して仕えた。また、この年、江戸に赴き2代将軍徳川秀忠(家康の3男)に講書をおこなっている。長崎で本草綱目を入手し、駿府に滞在している家康に献上している。また、慶長19年(1614年)の大坂の役に際しては方広寺の梵鐘に刻された京都南禅寺の禅僧文英清韓による銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」の文言の件(方広寺鐘銘事件)で、家康に追従して、これを徳川家を呪詛するものとして問題視する意見を献じた。さらに羅山は「右僕射源朝臣家康」(右僕射は右大臣の唐名)を「家康を射る」ものであると無理にこじつけた見解を表明している。寛永元年(1624年)、3代将軍・徳川家光(秀忠の長男)の侍講となり、さらに幕府政治に深く関与していくことになる。その活躍は、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』などの伝記・歴史の編纂・校訂、古書・古記録の採集、「武家諸法度」「諸士法度」「御定書百箇条」などの撰定、外交文書の起草、朝鮮通信使の応接など多岐にわたってい。寛永12年(1635年)には武家諸法度を起草し、翌寛永13年(1636年)には伊勢神宮参拝典礼にあたっている。寛永7年(1630年)、将軍・家光から江戸上野忍岡に土地を与えられ、寛永9年(1632年)、羅山は江戸上野忍岡に私塾(学問所)・文庫と孔子廟を建てて「先聖殿」と称した。のちに忍岡聖堂と呼ばれる施設である(これらはのちに神田の昌平坂に移されることとなる)。この私塾からは、多くの門人が輩出し、後世の昌平坂学問所の基礎となった。また、尾張藩初代藩主の徳川義直は、羅山が羅山の私邸の一角において孔子を祀る略式の釈奠を執り行うことについて援助しており、晩年は幕府より910石を給せられた。徳川家の家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕えた羅山は、初期の江戸幕府の土台作りに大きく関わり、様々な制度、儀礼などのルールを定めていった。学問上では、儒学神道以外の全てを排し、朱子学の発展と儒学の官学化に貢献した。博識で、学問書だけでなく紀行書を著すなど文人としての活躍ぶりも多彩である。林家当代の主が大学頭(だいがくのかみ)と称したのは羅山の孫の3代・林鳳岡の代からであり、以後林家は代々幕府の教学の責任者としての役割を担い、駿河文庫の管理もおこなった。

《今日の京都通》
知恩院にある七不思議の中で、左甚五郎にまつわるものはどれか。
 ア、白木の棺  イ、抜け雀  ウ、忘れ傘  エ、大杓子
<解答>  ウ、忘れ傘
<解説>京都の七不思議の中でも最もよく知られているのが知恩院にまつわる七不思議である。国宝の御影堂には左甚五郎の作と伝わる忘れ傘、さら鶯張りの廊下があり、方丈へ向かう廊下には三好青海入道の大杓子や抜け雀、三方正面真向きの猫があり、国宝の三門には五味金右衛門夫妻の白木の棺があり、黒門の前には瓜生石がある。(3級)