徳川秀忠。南総里見八犬伝。

<今日の江戸学トピック>
◆「およそ将たる者が、注意しておかねばならないことは3つある。第一には戦争、第二には災害、第三には火災。こうした不測の事態が万一起きた時にも、狼狽せず落ち着いて対処できるようにしておくべきである」これは、第2代将軍徳川秀忠が、家康の跡を継ぎ、何事にも慎重な性格だったといわれる。戦争や災害など想定外の事態に陥っても、落ち着いて対処できるようにするのが、責任者の役目だという。秀忠は、普段から、万一目の前で刃物を振り回すような事態に陥ったら、小太刀や鉄扇による護身術などを師に聞いて、対応できるようにしていたという。寛永9年(1632)1月24日、徳川2代将軍秀忠が亡くなりました。54歳。家康の三男。長兄信康が自害、次兄秀康が豊臣秀吉の養子となったため、世嗣となりました。2代将軍として福島正則の大名改易、キリシタン弾圧、紫衣事件など徳川将軍権力の基盤強化につとめました。家光に将軍職を譲ってからは西の丸で大御所として家光を後見。夫人は浅井長政の三女、お江。椿やボタンなどの花木を愛し、茶道の愛好家。

●第二代将軍秀忠(台徳院・徳川家康の三男)
 父:徳川家康 母:(側室)宝台院(西郷局) 正室:小姫・お江 側室:お静 在位:18年3ヶ月(1605〜23) 徳川宗家 享年:54歳 墓所:芝増上寺
 二代将軍秀忠は、天正7年(1579)家康の三男に浜松城で生まれる。幼名長松・竹千代。12歳の時豊臣秀吉より一字をもらい秀忠と名乗る。戦国武将は武勇に優れ、気骨ある性格をわが子に望むが、秀忠は幼少期からもの静かで父家康の教えに従順に従うものであった。「何事も大御所様の仰せのままに」で一貫して偉大な父を律儀に立て、その主体性のなさに泥人形と揶揄されることもあった。秀忠は関ヶ原の合戦で3万8千の大軍勢を率いて寄り道、2千人が籠城する上田城攻めで敗戦。中仙道で関ヶ原の戦いに向かうが間に合わず家康から激怒され、戦国武将としては影の薄い存在であった。慶長19年(1614)大阪冬の陣では、汚名返上とばかりに江戸から強行軍を続け、伏見城に着くと秀忠の軍勢は疲労困憊で戦どころではなかった。またもや家康の逆鱗に触れたのである。
 慶長10年(1605)4月に秀忠は征夷大将軍に就任、父家康は駿府で大御所として隠居する。秀忠は徳川家直轄地と譜代大名を統治し、駿府城の家康は外様大名の接渉を担当する二元政治体制をとった。しかし、秀忠は家康が亡くなると豹変、家康が存命時に構想していた改易転封による大名統制、キリスト教弾圧、貿易統制を強化するなど、幕府の地盤を固めた二代目としての功績は大きい。正室お江与の方は大変嫉妬深い性格で、恐妻家の秀忠は正式な側室を置かなかった。お江は念願の嫡男・竹千代(家光)、次男・国松(忠長)を授かる。だが、秀忠はお静の方との間に思いがけず男児・幸松(保科正之)を授かるが、お江の逆鱗に触れてはならぬと、認知せず密かに武田家の家臣筋である譜代大名・高遠藩保科正光の実子とした。親子の対面が叶ったのはお江与の死後である。秀忠には二代将軍の座を争った福井75万石を領する異母兄・結城秀康がいた。秀康の死去により嫡男忠直が跡を継いでいたが、江戸への参勤を怠るなど精神疾患が噂され、家臣団が恐慌状態になる所業を黙殺できず改易とした。この頃、家光に将軍職を譲るための上洛の日が迫っており、徳川家内部の不安を抱えた忠直の改易に踏み切ったのである。秀忠は元和9年(1623)家光に将軍職を譲るが、律儀に父家康に倣って大御所となり実権は手放さず、西ノ丸対本丸の二元政治を行った。寛永8年には溺愛していた次男忠長の領地を召し上げ蟄居を命じる。この頃から秀忠は体調を崩し伏せるようになり、翌寛永9年(1632)1月24日死去。享年54歳。


◆『南総里見八犬伝』(なんそうさとみはっけんでん)は、江戸時代後期に曲亭馬琴滝沢馬琴https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B2%E4%BA%AD%E9%A6%AC%E7%90%B4#/media/File:Kyokutei_Bakin.jpg)によって著わされた大長編読本。里見八犬伝、あるいは単に八犬伝とも呼ばれる。文化11年(1814年)に刊行が開始され、28年をかけて天保13年(1842年)に完結した、全98巻、106冊の大作である。上田秋成の『雨月物語』などと並んで江戸時代の戯作文芸の代表作であり、日本の長編伝奇小説の古典の一つである。
 『南総里見八犬伝』は、室町時代後期を舞台に、安房里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(八犬士)を主人公とする長編伝奇小説である。共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士は、それぞれに「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の文字のある数珠の玉(仁義八行の玉)を持ち、牡丹の形の痣を身体のどこかに持っている。関八州の各地で生まれた彼らは、それぞれに辛酸を嘗めながら、因縁に導かれて互いを知り、里見家の下に結集する。馬琴はこの物語の完成に、48歳から75歳に至るまでの後半生を費やした。その途中失明という困難に遭遇しながらも、息子宗伯の妻であるお路の口述筆記により最終話まで完成させることができた。『八犬伝』の当時の年間平均発行部数は500部ほどであったが、貸本により実際にはより多くの人々に読まれており、馬琴自身「吾を知る者はそれただ八犬伝か、吾を知らざる者もそれただ八犬伝か」と述べる人気作品であった。明治に入ると、坪内逍遥が『小説神髄』において、八犬士を「仁義八行の化物にて決して人間とはいひ難かり」と断じ、近代文学が乗り越えるべき旧時代の戯作文学の代表として『八犬伝』を批判しているが、このことは、当時『八犬伝』が持っていた影響力の大きさを示している。なお、里見氏は実在の大名であるが、「八犬伝で有名な里見氏」と語られることがあるが、慶長19年(1614)、館山藩12万石の藩主・里見忠義は、伯耆国倉吉3万石(実高4000石)に転封。さらには倉吉も没収され、失意のうちに29歳で病死、里見家は断絶。このとき忠義に殉死した重臣・板倉昌察ら8人が八犬士のモデルともいわれているが、史実とフィクションが混同されるようだ。

《きょうの京都通》
●かつての花街である島原にあって久坂玄瑞など幕末の志士が会合を開いた場所はどこか。
 ア、明保野亭  イ、翠紅館  ウ、角屋  エ、郭公亭
<解答>  ウ、角屋 
<解説>角屋は、日本初の公認花街である島原の中で、揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27 ( 1952 ) 年に国の重要文化財に指定されている。幕末には、北側の壬生に拠点をもった新選組などが頻繁に出入りしたことでも知られており、また長州藩久坂玄瑞が密議を行ったことを示す石碑も建てられている。現在は角屋もてなしの美術館として、期間を限定して公開されている。明保野亭は産寧坂の入口にあった料亭で、幕末の明保野事件の舞台となり、坂本龍馬も泊ったとされる。翠紅館 ( すいこうかん ) はかつて西本願寺の別邸であった建物で、幕末には翠紅館会議が行われた。郭公亭 ( かっこうてい ) は清閑寺にあった茶室で、清水寺の勤皇僧であった月照西郷隆盛が密会した場所でもある。現在は無くなっており、石碑のみが境内に建つ。(3級)