享保の打ちこわし。茶ノ木稲荷は眼病平癒の神様。

<今日の江戸学スポット>
享保18年(1733)1月25日の夜、米を買い占めているといううわさがある米問屋高間伝兵衛宅に職人、日雇いの人たちら1700人余りがおしかけ、店をこわし、家財や帳簿を川へ投げ込みました。将軍のおひざ元、江戸での初の打ちこわしです。前年夏の西日本を襲った蝗害(こうがい)のため救援米を送って米価が高騰。町民が町奉行に詰めかけるなどしたそう。幕府は急きょ飢人の救済にあたったものの、無策だった町奉行大岡越前守は「米高間壱升二合をかゆにたき大岡くはれぬたった越前」と詠まれたそう。いわゆる享保の打ちこわしである。
 享保の打ちこわしとは、江戸時代中期の1733年(享保18年)の江戸で起こった庶民による打ちこわしである。1732年(享保17年)夏に起こった享保の大飢饉による米不足で米価が高騰した際、庶民の間で米価高の原因は徳川吉宗に協力し、米価の安定に尽力していた米商人の高間伝兵衛が米を買い占め、米価をつり上げようとしているという噂が立った。それに対し、幕府は米を供出するなどして米価を下げようとしたが失敗した。そして、1733年(享保18年)正月に高間伝兵衛の自宅を1700人の庶民が襲い、家材道具や米俵等を川に投げ入れるなどした。これが江戸時代最初の打ちこわしとされている 。なお、その時高間伝兵衛は房総にあった自宅に戻っていたので無事であった。その後、高間伝兵衛は自身が所持していた多量の米を放出して米価の安定に努めた。幕府は打ちこわしに関わった中心人物数人を流刑にした。

東京市ヶ谷の茶ノ木稲荷は眼病平癒の神様。この地の稲荷神の使いである白狐が、誤って茶の木で目を突いてしまったことから、江戸時代、信徒は正月3が日は茶を飲まない習俗だったとか。3週間茶を断って願を掛ければ、目の病気に御利益があるという。市谷亀岡八幡宮の境内にはいくつかの社があるが、その一つが眼病にご利益があるといわれる茶ノ木稲荷神社である。
・市谷亀岡八幡宮
 市谷亀岡八幡宮は、江戸城を築いた太田道灌が市谷御門(現在の千代田区)に文明11(1479)年、江戸城西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊をおまつりしたことが始まりである。名前の由来の「亀岡」は、「鶴」に対して「亀岡」と称された。その後、寛永13(1636)年頃に江戸城の外堀が完成したことを機に、茶ノ木稲荷神社内へ遷座した。以降、江戸幕府の信仰も厚く、5代将軍綱吉の母・桂昌院や老中柳沢吉保が寄進や参詣し、社頭がたいへん賑わったと伝えられている。現在、敷地内には、交通安全や海上守護にご利益のある金刀比羅宮や、立身出世や商売繁盛にご利益のある出世稲荷神社などの建物、新宿区唯一の銅の鳥居をはじめとした新宿区指定の文化財なども多数残されている。
・茶ノ木稲荷神社
 茶ノ木稲荷神社は、市谷亀岡八幡宮の境内にある石段の左側にある。今から1000年余り昔に弘法大師空海が関東へ向かう際に、初めて御鎮祭を行って開山したのが茶ノ木稲荷神社といわれている。御祭神に稲荷大神をおまつりし、衣食住安泰、家内安全、商売繁盛、芸事上達、その他にも幅広くご利益を授かることができる。また、茶ノ木稲荷神社の周りにはお茶の木がたくさん植えられています。お茶は弘法大師が薬用として中国から日本に広めたといわれ、薬として珍重されていた。今日でも、よそにはないお茶にまつわる風習が伝わっている。茶ノ木稲荷神社に残る眼病平癒の伝説なぜ、茶ノ木稲荷神社が眼病にご利益があるのかというと、ここには、ある伝説が残されている。その昔、茶ノ木稲荷神社にいた神のお使いである白きつねが、誤って境内のお茶の木の枝で目をついて怪我をし、境内の霊泉で目を洗ったところ、目の傷が治ったのだとか。そのことから、お茶を断って眼病にご利益があるといわれるようになったそうだ。その昔、氏子の間では正月の3が日はお茶を飲まない風習や、特に眼病を患っている人たちの間では7日、あるいは21日もしくは49日の間、お茶を飲むこと断って願掛けをするようになったそうだ。

◆今日は初天神。文京区の湯島天神江東区亀戸天神社などでは鷽替え神事が行なわれます。江戸時代から始まった行事。鷽は幸福を招く鳥と言われ毎年替えることで悪いものが“うそ”になると言われています江東区亀戸天神社では「うそ替え神事」(http://event-checker.blog.so-net.ne.jp/usokae)が行なわれる。幸運を招く鳥、鷽(うそ)。太宰府天満宮http://www.dazaifutenmangu.or.jp/sanpai/saiten/special/onisube)のお祭りの時に害虫駆除で活躍した鳥だそうである。毎年鷽鳥のお守りを切り替えることで、悪いことが“うそ”になり、一年の吉兆を招くといわれている、江戸時代から始まった神事。亀戸天神では、昨日と1月25日(木)の2日間。湯島天神では、1月25日(木)に「鷽替えの神事」が行われた。神職の手で一体一体心を込めて作られた鷽は、1年でこの2日間しか手に入らない貴重な人気モノ。

<今日の京都新聞
●寒天発祥の地は京都・伏見 参勤交代のもてなしで発明(京都市伏見区
 京都・伏見が寒天発祥の地であることを発信するイベント「伏見寒天フェスタ」が、2月10〜12日に京都市伏見区役所や周辺の飲食店で初めて開かれる。講演会や料理教室、地元の飲食店でのグルメなどを通して寒天の歴史や魅力を味わえる。植野さんが寒天の歴史を調べ始めたのは、10年ほど前。現在の伏見区御駕籠町にあった旅館で、参勤交代で訪れた薩摩藩の島津家をもてなすため出されたところてんが屋外で凍り、水分が抜けたのを見て寒天が発明された−という話を聞いて、興味を持った。以来、寒天製法を確立したとされる大阪府高槻市に足を運ぶなど、調査を続けている。その成果を、郷土史研究者の集まる伏見城研究会で昨年2月に発表したところ、多くの会員の関心を呼び、発祥の地の石碑を建てることを目標に、「伏見寒天プロジェクト」をスタートした。(http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20180123000156

《今日の京都通》
西本願寺顕如上人の逸話にちなんで名付けられた門前名物はどれか。
 ア、松風  イ、長五郎餅  ウ、おせき餅  エ、どら焼き
<解答>  ア、松風
<解説>  松風は西本願寺門前の亀屋陸奥の銘菓で、かつて本願寺織田信長と戦った際に、亀屋陸奥の主が兵糧の足しになればと、腹もちのいい菓子を考案して献上したのがきっかけて生まれたという。その際の門主であった顕如は、戦後に当時を懐かしんで、 「 わすれては 波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風 」 と呼んだことから銘菓の名がついた。長五郎餅は北野天満宮の門前名物で、豊臣秀吉命名した銘菓であり、おせき餅はかつての鳥羽街道名物で、現在は城南宮の門前名物となっており、どら焼きは笹谷伊織が手掛ける東寺の門前名物である。(3級)