ロシア船打ち払い令。徳川家康。

<今日の江戸学トピック>
◆文化2年(1805)1月26日、幕府が諸大名にロシア船来航に対して、旧来にも増して沿岸警備を厳重にするよう命じました。長崎に来航した遺日大使レザノフを追い返した直後のこと。ロシア船を見かけたら、漂流民を送り返しに来たといっても拒否し、漂流していたら食糧や水を与えて追い返すよう指導しました。
●1789年、アダム・ラクスマンはペテルブルク大学から派遣されてシベリアのイルクーツクに滞在中、伊勢国出身の大黒屋光太夫ら漂流者6名と出会う。父の支援を受け、光太夫を連れてペテルブルクの女帝エカチェリーナ2世と謁見し、光太夫送還の許しを得たラクスマンは、女帝の命により光太夫、小市、磯吉の3名の送還とイルクーツク総督イワン・ピールの通商要望の信書を手渡すためのロシア最初の遣日使節となる。寛政4年(1792年)9月24日にエカテリーナ号でオホーツクを出発、10月20日根室に到着した。藩士根室に駐在していた松前藩は直ちに幕府に報告。幕府は、ラクスマンが江戸に出向いて漂流民を引き渡し、通商交渉をおこなう意思が強いことを知らされた。しかし、老中松平定信らは、漂流民を受け取るとともに、総督ピールの信書は受理せず、もしどうしても通商を望むならば長崎に廻航させることを指示。そのための宣諭使として目付石川忠房、村上大学を派遣した。併せて幕府は使節を丁寧に処遇せよとの命令を出しており、冬が近づいたため、松前藩士は冬営のための建物建設に協力し、ともに越冬した。石川忠房は翌寛政5年(1793年)3月に松前に到着。幕府はラクスマン一行を陸路で松前に行かせ、そこで交渉する方針であったが、陸路をロシア側が拒否したので、日本側の船が同行して砂原まで船で行くこととした。しかしエカテリーナ号は濃霧で同行の貞祥丸とはぐれ、単独で6月8日、箱館に入港した。ラクスマン一行は箱館から陸路、松前に向かい、6月20日松前到着。石川忠房は長崎以外では国書を受理できないため退去するよう伝えるとともに、光太夫と磯吉の2人を引き取った。ラクスマンらが別れを告げに行った際、宣諭使両名の署名がある「おろしや国の船壱艘長崎に至るためのしるしの事」と題する長崎への入港許可証(信牌)を交付される。6月30日に松前を去り、7月16日に箱館を出港。長崎へは向かわずオホーツクに帰港した。
●レザノフは、露米会社の食糧難打開や経営改善には南にある日本との交易が重要と考えて、遣日使節の派遣を宮廷に働きかけた。これより前の1792年に、日本人漂流民の大黒屋光太夫一行を返還する目的で通商を求めたアダム・ラクスマンと、日本の江戸幕府老中職の松平定信との間に国交樹立の約束が交わされていたが、レザノフはこの履行を求めた。彼は日本人漂流民の津太夫一行を送還する名目で、遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節団を率いることとなり、正式な国交樹立のために通行許可証である信牌を携え、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの世界一周航海艦隊の隊長としてペテルブルクから出航し、南米回りで太平洋を航海してカムチャツカへ到着した。
 航海中、旗艦ナジェージタ号の艦長クルーゼンシュテルンと激しく対立しつつ、レザノフは津太夫と同じ日本人漂流民の善六から日本語を学び辞書を作った。1804年(文化元年)9月に長崎の出島に来航する。交渉相手の定信は朝廷との尊号一件により老中職から失脚し、幕府は外交能力を失っており、代わりに老中土井利厚が担当した。土井から意見を求められた林述斎は、ロシアとの通商は「祖宗の法」に反するために拒絶すべきであるが、ラクスマンの時に信牌を与えた経緯がある以上、礼節をもってレザノフを説得するしかないと説いた。だが、土井はレザノフに「腹の立つような乱暴な応接をすればロシアは怒って二度と来なくなるだろう。もしもロシアがそれを理由に武力を行使しても日本の武士はいささかも後れはとらない」と主張したという(東京大学史料編纂所所蔵「大河内文書 林述斎書簡」)。その結果、レザノフたちは半年間出島近くに留め置かれることになる(当初は長崎周辺の海上で待たされ、出島付近に幕府が設営した滞在所への上陸が認められたのは来航から約2か月後だった)。この間、奉行所の検使がレザノフらのもとを訪問しており、その中には長崎奉行所に赴任していた大田南畝もいた。翌年には長崎奉行所において長崎奉行遠山景晋(遠山景元の父)から、唐山(中国)・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)以外の国と通信・通商の関係を持たないのが「朝廷歴世の法」で議論の余地はないとして、装備も食料も不十分のまま通商の拒絶を通告される。

◆初代将軍徳川家康(安国院・松平広忠の長男)
 父:松平広忠 母:伝通院(於大の方) 正室:築山殿 継室:旭姫 側室:西郷局・小督局・阿茶局・蔭山殿 子供:11男5女 在位:2年2ヶ月(1603〜05)、享年75歳。
 家康は群雄割拠の戦国時代、深慮遠望を持って事に当たり、天下統一を成し遂げた。家康は将軍職を徳川家累代の世襲とし、広く世に知らしめる為に短期で2代秀忠に将軍職を譲る。さらに3代目将軍に家臣団はおろか父秀忠まで加わって次男国松が擁立されようになると、自ら江戸城に入って長男家光を世継ぎに据えて、形式や制度を重視する長子世襲制を揺るぎない統治の礎とした。
 徳川家康織田信長と同盟、豊臣秀吉に臣従した後、応仁の乱から123 年続いた戦乱に終止符を打った。「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座って喰らうは徳川家康」と狂歌で揶揄されている。しかし、家康が織豊政権と全く異なる政権基盤を築いた。江戸幕府は、全国の直轄幕領地や旗本知行地などで総石高の3割に相当する700万石を独占管理していた。さらに貨幣経済の根幹も抑え、他の大名の追随を許さない圧倒的な権力基盤を築いた。これを背景に武家諸法度禁中並公家諸法度、社寺法度によって、全国諸大名、寺社、朝廷、皇室までも新秩序における関係を明確に規定することで取締まり支配した。このように徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体制は極めて完成度の高いものであった。天正16年(1590)8月1日に家康が江戸城に入府以来、慶応4年(1868)4月7日十五代将軍慶喜江戸幕府が瓦解するまでの278年間もの長きに渡って徳川将軍家が継続支配したのである。
・松平竹千代→松平元信→松平元康→徳川家康
 家康は天文11年(1542)岡崎城松平広忠尾張刈谷城主水野忠政の娘(於大の方)の間に生まれた。3歳のときに忠政が織田方についたため、今川方の広忠は妻と離縁した。母親から引き離された幼い家康(竹千代)は、8歳で父弘忠は暗殺された。天文18年(1549)人質として駿府へ送られる。駿府では今川義元に奉仕し、元服に際し、主君の一字を与えられて松平元信(通称次郎三郎)を名乗り、今川一族から妻瀬名(築山殿)を迎え、元康と名を改めた。家康は築山殿との間に長男信康と長女亀姫をもうけた。永禄3年(1560)桶狭間の戦い今川義元織田信長に討たれ混乱に乗じて今川氏から独立し岡崎へ帰還した。永禄4年(1561)には信長と和睦(清州同盟)して勢力拡大を謀るが、それは今川家との絶縁を意味していた。信長に配慮せざるを得ない家康は築山殿との別居に追い込まれた。永禄6年(1563)年に義元の一字を捨て元康から家康に改名する。同年に一向宗を中心とした一揆が勃発すると、半年かけて鎮圧した一向宗を禁止する。永禄8年(1565)年には今川勢を東三河から駆逐する。さらに遠江に侵攻して、元亀元年(1570)には浜松城を築き本拠とする。しかし、元亀3年(1572)南進する武田信玄軍と三方ヶ原で戦い大敗する。そのときにあまりにも悔しかったため、生涯の自省をこめての苦々しい表情の絵を描かせている。元亀3年(1572)、三方ヶ原で武田信玄に手痛い敗戦をこうむった家康が、その配線を肝に銘ずるために描かせたといわれる。小具足姿で三脚椅子に座った家康は、生涯の自省をこめた苦々しい表情から「しかみ像」とも呼ばれている。
 さらに家康は同盟者織田信長との関係に翻弄されることになる。家康の長男信康に信長の娘徳姫を正室に迎えていた。信長は娘の徳姫から夫信康の母築山殿が武田家に内通しているという手紙を受け取った。家康は武田信玄の後継者・勝頼とは依然として敵対関係にあり、内通は裏切り行為に他ならず、家康は苦渋の決断を迫られた。天正7年(1579)、徳川家の分裂を防ぐため、家臣に築山殿の殺害を、信康には切腹を命じた。妻と長男を犠牲にすることで家康は徳川家の安泰を謀ったのである。天正3年(1575)5月1日、甲斐の武田勝頼は1万5千の軍勢を率いて長篠城を包囲した。長篠城主・奥平定昌のわずか5百の兵が籠城したが落城寸前となる。そこで配下の者が決死的な脱出で、岡崎城の家康、信長の援軍を得た。戦いは5月21日設楽原で連吾川を挟み、織田・紱川軍3万8千と3千挺の鉄砲隊と馬防柵の前に武田の騎馬隊が壮絶な戦闘を繰り返し惨敗した。この長篠の戦いで倒れた両軍の武士達の霊を慰めるための行事で鉄砲隊による火縄銃の演武が長篠城で行われている。
 天正10年(1582)本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、甲斐、信濃を平定した。天正12年(1584)織田信雄を奉じて秀吉と対決して小牧・長久手の戦いに勝利する。しかし、信雄が人質として、秀康を差出したため収拾し秀吉は権大納言に任命される。北条氏滅亡後、天正18年(1590)8月関東移封で江戸城に入府する。豊臣政権下の五大老筆頭となる。秀吉の死後の慶長5年(1600)関が原の戦いで西軍に勝利する。慶長8年(1603)家康は征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開いた。慶長8年(1603)2月12日、家康は後陽成天皇から征夷大将軍の宣旨を受け、名実ともに天下人となった。慶長10年(1605)家康は将軍職を秀忠に譲ると隠居先の駿府城江戸城との二元政治を行い大御所として君臨した。慶長19年(1614)大坂の冬の陣、慶長20年(1615)大坂夏の陣豊臣氏の滅亡を見届けた家康は、元和2年(1616)1月に病に倒れ、3月には太政大臣を任命され、4月17日に亡くなる。

《今日の京都通》
北野天満宮にある重要文化財となっている門はどれか。
 ア、呑湖閣  イ、金毛閣  ウ、仁王門 ( 目隠し門 )   エ、三光門
<解答>  エ、三光門 
<解説>  北野天満宮の国宝本殿へ向かう門は、三光門 ( さんこうもん ) と呼ばれて重要文化財に指定されている。三光というと通常は太陽、星、月があるのが定番であるが、この北野天満宮の三光門は 「 星欠けの三光門 」 と呼ばれており、北野天満宮の七不思議のひとつになっている。呑湖閣 ( どんこかく ) は大徳寺塔頭である芳春院の中にあり、京都府指定有形文化財となっている。大徳寺の三門である金毛閣 ( きんもうかく ) は、千利休が二階部分を寄進したことでも知られており、重要文化財指定となっている。仁王門 ( 目隠し門 ) は、清水寺の入口の門であり、重要文化財指定となっている。(2級)