『とにかくやってみなはれ。やる前から諦める奴は、一番つまらん人間だ。』(西堀 栄三郎)。二条城の本丸御殿

<1月28日生まれの偉人>
◆西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年明治36年)1月28日 - 1989年(平成元年)4月13日)は、日本の登山家、無機化学者、技術者。京都府出身。京都一中、三高を経て、京都帝国大学理学部化学科卒業。京大講師、助教授を歴任した後、東京電気(東芝)に移る。東芝技術本部長時代には海軍の要請を受けて真空管「ソラ」を開発し、技術院賞を受賞した。材料不足の状態でも大量生産できるように、微細な部分に至るまで製造マニュアルを完備し、"新橋の芸者を集めてでも製造可能"とされた。
 戦後は独立コンサルタントとして統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込み、デミング賞や電電公社総裁賞を受賞。戦後日本の飛躍的な工業発展の礎の1つとなった。京大に助教授、教授として復帰してからも精力的に活動し、第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長や日本山岳協会会長を務める。日本初の8000m級登山であるマナスル登山計画時にはネパール政府との交渉役として活躍。
 ●名言
 ・人にとって最も恐ろしいのは、惰性で日を送ることである。向上心があれば、飽きることがない。仕事・生活の中に、向上の道を残さねばならな  い。向上を求めねばならない。
 ・人材を育てる方法はただ一つ。仕事をさせ、成功させることである。成功経験が人を育て、さらに大きな仕事をさせる。
 ・チャンスを逃がすな。まず決断せよ。石橋を叩くのはそれからだ。
 ・とにかくやってみなはれ。やる前から諦める奴は、一番つまらん人間だ。

<今日の江戸学トピック>
天保14年(1843)1月28日、画家、長谷川雪旦が亡くなりました。66歳。江戸の下谷三枚橋に居住。はじめ彫刻工でしたが、桃山時代長谷川等伯の末流を自称し、画工となりました。『江戸名所図会』、そして『東都歳事記』の挿絵を描きました。

《今日の京都通》
●二条城の本丸御殿はどこの建物を移されてきたか。
 ア、桂宮家  イ、有栖川宮家  ウ、閑院宮家  エ、伏見宮
<解答>  ア、桂宮
<解説>  選択肢の桂宮家、有栖川宮家、閑院宮家、伏見宮家は四親王家 ( ししんのうけ ) と呼ばれ、天皇家に跡継ぎとなる皇子が生まれない場合は、代わりに即位する皇子を出すことができた格式のある家である。中でも二条城の本丸御殿として屋敷を提供したのは桂宮家である。桂宮家は京都御所の北側に屋敷を構えていたが、明治26 ( 1893 ) 年から明治27 ( 1894 ) 年にかけて二条城に屋敷を移築し、本丸御殿とした。そのため結果的には本格的な公家屋敷としての保存がなされて現在に至っている。( 耐震性の問題もあって平成19年より非公開 )


天野屋利兵衛。

享保12年(1727)1月27日、商人の天野屋利兵衛が亡くなった。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」十段目の主人公の天河屋義平のモデルとされる人物。赤穂浪士のために武器を調達。捕らえられて拷問をうけながら、白状しなかったといわれますが、実際の利兵衛は赤穂藩とは全く関係がなかったと言われている。
 ●天野屋利兵衛 (あまのやりへえ、寛文元年(1661年) - 享保18年8月6日(1733年9月13日))は、江戸時代の商人。名は直之(なおゆき)。利兵衛は、元禄時代熊本藩細川家と岡山藩池田家の大坂屋敷に出入りしていた大坂の商人であり、元禄3年(1690年)の『平野町宗旨改帳』によれば北組惣年寄となっている。また元禄7年(1694年)には天野屋の通しの称である九郎兵衛を襲名しており、これ以降は天野屋九郎兵衛になった。元禄8年(1695年)になると遠慮を申し渡されており、このときに惣年寄も解任されたようだ。のちに松永土斎と称した。
 赤穂事件やそれを題材にした『忠臣蔵』などにおいて、赤穂浪士の吉良邸討ち入りを支援をしたと知られているが、赤穂藩とは関係の無い人物である。しかし、赤穂浪士の吉良邸討ち入り後、かなり早い時点から赤穂義士を支援した義商として英雄化された。討ち入り直後に書かれた加賀藩前田家家臣杉本義隣の『赤穂鐘秀記』においても「大坂の商人天野屋次郎左衛門、赤穂義士たちのために槍20本つくったかどで捕縛され、討ち入り後に自白した」などと書かれている。赤穂浪士切腹から6年後の宝永6年(1709年)に津山藩小川忠右衛門によって書かれた『忠誠後鑑録或説』にも「大坂の惣年寄の天野屋理兵衛が槍数十本をつくって町奉行松野河内守助義により捕縛され使用目的を自白させるために拷問にかけられたが、答えずに討ち入りが成功した後にようやく自白した」などと書かれている。その後これを起源として各書に伝播していき、芝居『仮名手本忠臣蔵』の中にもこの話が採用されたため、定説化したと考えられる。なお、『仮名手本忠臣蔵』では、十段目に天河屋 義平(あまかわや ぎへえ)として登場する。武士でもない一商人が、役人の拷問に耐え忍びながらも一切口を割らず、「天河屋の義平は男でござるぞ、子にほだされ存ぜぬ事を存じたとは申さぬ」という科白を廻す場面で知られる。

嵐、活動休止はリーダー・大野智の申し出 約1年半前から話し合い。京都・北野天満宮で初天神。

◆ジャニーズの5人組人気グループ「嵐」が27日、2020年12月31日をもってグループ活動を休止することを電撃発表した。


<今日の京都新聞
◆京都・北野天満宮初天神 梅花見物や合格祈願もにぎわい
 北野天満宮京都市上京区)の今年最初の縁日「初天神」が25日、境内であった。ほころび始めた梅の芳香を楽しむ人や参道に軒を連ねる露店をゆっくり見て回る人など、多くの参拝者でにぎわった。
 祭神菅原道真の誕生日(6月25日)と命日(2月25日)にちなむ毎月25日の縁日には、多くの露店が立ち並ぶ。この時期は梅花見物や合格祈願でお参りに来る人もいて、特に多くの人出があるという。参道には古着や食品、骨とう品に混じって菜の花やツバキなどを扱う店もあり、訪れた人が寒中に彩りを添える花を買い求めていた。


<今日の江戸学>
◆宝永6年(1709)1月27日、水戸宝永一揆決着。3年前に財政家松波勘十郎に委託して舟運路開削事業などを起こし、財政改革をしていた水戸藩。幕府が藩札発行を禁止したため、業者への支払いが不能となり、さらに年貢の納期が繰り上げられたため、農民の不満が爆発。年明け早々藩内は騒然となっていました。この日午前2時ごろ、松波父子を追放、改革停止を発令することで事態を収拾。勘十郎は2人の息子とともに翌年水戸で獄死した。

『南総里見八犬伝』。

<今日の江戸学トピック>
◆『南総里見八犬伝』(なんそうさとみはっけんでん)は、江戸時代後期に曲亭馬琴滝沢馬琴https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B2%E4%BA%AD%E9%A6%AC%E7%90%B4#/media/File:Kyokutei_Bakin.jpg)によって著わされた大長編読本。里見八犬伝、あるいは単に八犬伝とも呼ばれる。文化11年(1814年)に刊行が開始され、28年をかけて天保13年(1842年)に完結した、全98巻、106冊の大作である。上田秋成の『雨月物語』などと並んで江戸時代の戯作文芸の代表作であり、日本の長編伝奇小説の古典の一つである。
 『南総里見八犬伝』は、室町時代後期を舞台に、安房里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(八犬士)を主人公とする長編伝奇小説である。共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士は、それぞれに「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の文字のある数珠の玉(仁義八行の玉)を持ち、牡丹の形の痣を身体のどこかに持っている。関八州の各地で生まれた彼らは、それぞれに辛酸を嘗めながら、因縁に導かれて互いを知り、里見家の下に結集する。馬琴はこの物語の完成に、48歳から75歳に至るまでの後半生を費やした。その途中失明という困難に遭遇しながらも、息子宗伯の妻であるお路の口述筆記により最終話まで完成させることができた。『八犬伝』の当時の年間平均発行部数は500部ほどであったが、貸本により実際にはより多くの人々に読まれており、馬琴自身「吾を知る者はそれただ八犬伝か、吾を知らざる者もそれただ八犬伝か」と述べる人気作品であった。明治に入ると、坪内逍遥が『小説神髄』において、八犬士を「仁義八行の化物にて決して人間とはいひ難かり」と断じ、近代文学が乗り越えるべき旧時代の戯作文学の代表として『八犬伝』を批判しているが、このことは、当時『八犬伝』が持っていた影響力の大きさを示している。なお、里見氏は実在の大名であるが、「八犬伝で有名な里見氏」と語られることがあるが、慶長19年(1614)、館山藩12万石の藩主・里見忠義は、伯耆国倉吉3万石(実高4000石)に転封。さらには倉吉も没収され、失意のうちに29歳で病死、里見家は断絶。このとき忠義に殉死した重臣・板倉昌察ら8人が八犬士のモデルともいわれているが、史実とフィクションが混同されるようだ。

ロシア船追い返し令。熊本・和水町で震度5弱。

<今日の江戸学トピック>
◆文化2年(1805)1月26日、幕府が諸大名にロシア船来航に対して、旧来にも増して沿岸警備を厳重にするよう命じました。長崎に来航した遺日大使レザノフを追い返した直後のこと。ロシア船を見かけたら、漂流民を送り返しに来たといっても拒否し、漂流していたら食糧や水を与えて追い返すよう指導しました。
●1789年、アダム・ラクスマンはペテルブルク大学から派遣されてシベリアのイルクーツクに滞在中、伊勢国出身の大黒屋光太夫ら漂流者6名と出会う。父の支援を受け、光太夫を連れてペテルブルクの女帝エカチェリーナ2世と謁見し、光太夫送還の許しを得たラクスマンは、女帝の命により光太夫、小市、磯吉の3名の送還とイルクーツク総督イワン・ピールの通商要望の信書を手渡すためのロシア最初の遣日使節となる。寛政4年(1792年)9月24日にエカテリーナ号でオホーツクを出発、10月20日根室に到着した。藩士根室に駐在していた松前藩は直ちに幕府に報告。幕府は、ラクスマンが江戸に出向いて漂流民を引き渡し、通商交渉をおこなう意思が強いことを知らされた。しかし、老中松平定信らは、漂流民を受け取るとともに、総督ピールの信書は受理せず、もしどうしても通商を望むならば長崎に廻航させることを指示。そのための宣諭使として目付石川忠房、村上大学を派遣した。併せて幕府は使節を丁寧に処遇せよとの命令を出しており、冬が近づいたため、松前藩士は冬営のための建物建設に協力し、ともに越冬した。石川忠房は翌寛政5年(1793年)3月に松前に到着。幕府はラクスマン一行を陸路で松前に行かせ、そこで交渉する方針であったが、陸路をロシア側が拒否したので、日本側の船が同行して砂原まで船で行くこととした。しかしエカテリーナ号は濃霧で同行の貞祥丸とはぐれ、単独で6月8日、箱館に入港した。ラクスマン一行は箱館から陸路、松前に向かい、6月20日松前到着。石川忠房は長崎以外では国書を受理できないため退去するよう伝えるとともに、光太夫と磯吉の2人を引き取った。ラクスマンらが別れを告げに行った際、宣諭使両名の署名がある「おろしや国の船壱艘長崎に至るためのしるしの事」と題する長崎への入港許可証(信牌)を交付される。6月30日に松前を去り、7月16日に箱館を出港。長崎へは向かわずオホーツクに帰港した。
●レザノフは、露米会社の食糧難打開や経営改善には南にある日本との交易が重要と考えて、遣日使節の派遣を宮廷に働きかけた。これより前の1792年に、日本人漂流民の大黒屋光太夫一行を返還する目的で通商を求めたアダム・ラクスマンと、日本の江戸幕府老中職の松平定信との間に国交樹立の約束が交わされていたが、レザノフはこの履行を求めた。彼は日本人漂流民の津太夫一行を送還する名目で、遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節団を率いることとなり、正式な国交樹立のために通行許可証である信牌を携え、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの世界一周航海艦隊の隊長としてペテルブルクから出航し、南米回りで太平洋を航海してカムチャツカへ到着した。
 航海中、旗艦ナジェージタ号の艦長クルーゼンシュテルンと激しく対立しつつ、レザノフは津太夫と同じ日本人漂流民の善六から日本語を学び辞書を作った。1804年(文化元年)9月に長崎の出島に来航する。交渉相手の定信は朝廷との尊号一件により老中職から失脚し、幕府は外交能力を失っており、代わりに老中土井利厚が担当した。土井から意見を求められた林述斎は、ロシアとの通商は「祖宗の法」に反するために拒絶すべきであるが、ラクスマンの時に信牌を与えた経緯がある以上、礼節をもってレザノフを説得するしかないと説いた。だが、土井はレザノフに「腹の立つような乱暴な応接をすればロシアは怒って二度と来なくなるだろう。もしもロシアがそれを理由に武力を行使しても日本の武士はいささかも後れはとらない」と主張したという(東京大学史料編纂所所蔵「大河内文書 林述斎書簡」)。その結果、レザノフたちは半年間出島近くに留め置かれることになる(当初は長崎周辺の海上で待たされ、出島付近に幕府が設営した滞在所への上陸が認められたのは来航から約2か月後だった)。この間、奉行所の検使がレザノフらのもとを訪問しており、その中には長崎奉行所に赴任していた大田南畝もいた。翌年には長崎奉行所において長崎奉行遠山景晋(遠山景元の父)から、唐山(中国)・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)以外の国と通信・通商の関係を持たないのが「朝廷歴世の法」で議論の余地はないとして、装備も食料も不十分のまま通商の拒絶を通告される。


<今日のニュース>
◆熊本・和水町震度5弱
 今日午後2時16分ごろ、熊本県和水町震度5弱地震があった。和水町では今月3日にも震度6弱を観測しており、気象庁は、家屋の倒壊や土砂災害などの危険性が高まっている恐れがあるとして注意を呼びかけている。

江戸で初の打ちこわし。

享保18年(1733)1月25日、江戸で初の打ちこわしが起こりました。前々年大坂で米の買い占めを行なった高間伝兵衛に対し、「米を隠している」との噂がたち、この日の夜、1700人あまりの町人が本船町の伝兵衛宅に殺到。家屋家財を破損し、帳簿を焼却しました。江戸開府初めての将軍のおひざ元での打ちこわしでした。
 享保の打ちこわしとは、江戸時代中期の1733年(享保18年)の江戸で起こった庶民による打ちこわしである。1732年(享保17年)夏に起こった享保の大飢饉による米不足で米価が高騰した際、庶民の間で米価高の原因は徳川吉宗に協力し、米価の安定に尽力していた米商人の高間伝兵衛が米を買い占め、米価をつり上げようとしているという噂が立った。それに対し、幕府は米を供出するなどして米価を下げようとしたが失敗した。そして、1733年(享保18年)正月に高間伝兵衛の自宅を1700人の庶民が襲い、家材道具や米俵等を川に投げ入れるなどした。これが江戸時代最初の打ちこわしとされている 。なお、その時高間伝兵衛は房総にあった自宅に戻っていたので無事であった。その後、高間伝兵衛は自身が所持していた多量の米を放出して米価の安定に努めた。幕府は打ちこわしに関わった中心人物数人を流刑にした。

 

徳川秀忠。

<今日の江戸学トピック>
◆「およそ将たる者が、注意しておかねばならないことは3つある。第一には戦争、第二には災害、第三には火災。こうした不測の事態が万一起きた時にも、狼狽せず落ち着いて対処できるようにしておくべきである」
 これは、第2代将軍徳川秀忠。家康の跡を継ぎ、何事にも慎重な性格だったといわれる。戦争や災害など想定外の事態に陥っても、落ち着いて対処できるようにするのが、責任者の役目だという。秀忠は、普段から、万一目の前で刃物を振り回すような事態に陥ったら、小太刀や鉄扇による護身術などを師に聞いて、対応できるようにしていたという。
●第二代将軍秀忠(台徳院・徳川家康の三男)
 父:徳川家康 母:(側室)宝台院(西郷局) 正室:小姫・お江 側室:お静 在位:18年3ヶ月(1605〜23) 徳川宗家 享年:54歳 墓所:芝増上寺
 二代将軍秀忠は、天正7年(1579)家康の三男に浜松城で生まれる。幼名長松・竹千代。12歳の時豊臣秀吉より一字をもらい秀忠と名乗る。戦国武将は武勇に優れ、気骨ある性格をわが子に望むが、秀忠は幼少期からもの静かで父家康の教えに従順に従うものであった。「何事も大御所様の仰せのままに」で一貫して偉大な父を律儀に立て、その主体性のなさに泥人形と揶揄されることもあった。秀忠は関ヶ原の合戦で3万8千の大軍勢を率いて寄り道、2千人が籠城する上田城攻めで敗戦。中仙道で関ヶ原の戦いに向かうが間に合わず家康から激怒され、戦国武将としては影の薄い存在であった。慶長19年(1614)大阪冬の陣では、汚名返上とばかりに江戸から強行軍を続け、伏見城に着くと秀忠の軍勢は疲労困憊で戦どころではなかった。またもや家康の逆鱗に触れたのである。
 慶長10年(1605)4月に秀忠は征夷大将軍に就任、父家康は駿府で大御所として隠居する。秀忠は徳川家直轄地と譜代大名を統治し、駿府城の家康は外様大名の接渉を担当する二元政治体制をとった。しかし、秀忠は家康が亡くなると豹変、家康が存命時に構想していた改易転封による大名統制、キリスト教弾圧、貿易統制を強化するなど、幕府の地盤を固めた二代目としての功績は大きい。正室お江与の方は大変嫉妬深い性格で、恐妻家の秀忠は正式な側室を置かなかった。お江は念願の嫡男・竹千代(家光)、次男・国松(忠長)を授かる。だが、秀忠はお静の方との間に思いがけず男児・幸松(保科正之)を授かるが、お江の逆鱗に触れてはならぬと、認知せず密かに武田家の家臣筋である譜代大名・高遠藩保科正光の実子とした。親子の対面が叶ったのはお江与の死後である。秀忠には二代将軍の座を争った福井75万石を領する異母兄・結城秀康がいた。秀康の死去により嫡男忠直が跡を継いでいたが、江戸への参勤を怠るなど精神疾患が噂され、家臣団が恐慌状態になる所業を黙殺できず改易とした。この頃、家光に将軍職を譲るための上洛の日が迫っており、徳川家内部の不安を抱えた忠直の改易に踏み切ったのである。秀忠は元和9年(1623)家光に将軍職を譲るが、律儀に父家康に倣って大御所となり実権は手放さず、西ノ丸対本丸の二元政治を行った。寛永8年には溺愛していた次男忠長の領地を召し上げ蟄居を命じる。この頃から秀忠は体調を崩し伏せるようになり、翌寛永9年(1632)1月24日死去。享年54歳。