「赤頭巾ちゃん気をつけて」(作家庄司薫)より、再びよみがえる青春時代

◆今日誕生日の作家庄司薫の作品「赤頭巾ちゃん気をつけて」について
 「赤頭巾ちゃん気をつけて」は第六十一回の芥川賞受賞作である。昭和44年(1969年)の「中央公論」五月号に発表された。今からは46年も前の作品である。美人ピアニスト中村紘子さんのご主人である。
 主人公の名前は薫という高校3年生。薫くんは男の子で、東京大学法学部を目指している秀才である。薫くんの通っている(卒業しようとしている)高校は、あの有名な都立日比谷高校なのである。東大合格者数のトップは今では私立の開成高校と相場がきまっているが、薫くんのころには日比谷高校はずっとダントツの全国ナンバーワンだったのだ。日本の経済成長と歩調を合わせるかのように、東大合格者は私立が台頭してくる。(日比谷の凋落は薫くんも予想している)。日比谷のあと、灘高校の時代があり、やがて開成が頂点に立つ。でも開成が灘を抜いたのはいつごろだったのだろうか。
 「赤頭巾ちゃん」(長いので省略する)では、この東大が物語の発端になっているのである。薫くんが受験しようとしていた東大は突然に入試を中止してしまうのだ。「赤頭巾ちゃん」という小説は薫くんの長い一日が独白体で展開されているだけなのだが、その一日というのが昭和44年2月9日の日曜日である。この日は国立大学の願書締切り一日前ということになっている。薫くんの悩みは深い。東大が駄目なら、京都か、一ツ橋か、東工大か、それとも、いっそ、大学なんて止めちゃうか。
 東大の入試中止は、この年の1月に東大全共闘が東大安田講堂を封鎖して大学側と対立して、機動隊との激しい攻防戦になったことが直接の要因になった。東大の入試が行なわれなかったのは後にも先にも、この時だけである。この攻防戦をさかいにやがて学生運動は追い詰められ、解体していく。総括という名の下に悲惨な内ゲバ、内部抗争の爪あとを残して。大学も学生もたいへんな時代だったのだ。
 作者の庄司薫は「赤頭巾ちゃん」の薫くんとおなじ名前であることに。新潮文庫のカバー裏側には庄司薫は東大法学部卒業となっていることにも。
ということは、薫くんは庄司薫と同一人物なのか。芥川賞のときには庄司薫は生年を繰れば32歳。ともかく32歳の庄司薫が主人公を薫くんにして、饒舌文体で綴ったのが「赤頭巾ちゃん」である。ペンネームまで変えて。(庄司薫の本名は福田章二というが、そして彼はもっと若いときに本名で小説を書き別の新人賞まで受けている。「赤頭巾ちゃん」はしばらくの沈黙後、章二を庄司に変えて発表された小説なのであるが、この主人公のネーミング薫くんがまさに絶妙である。これがもし章二くんだったら、てんでサマにならない)。饒舌体。ほんとうに薫くんはおしゃべりである。たとえば、「ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上なんかにのっているのじゃないかと思うことがある。特に女友達にかける時なんかがそうで、どういうわけか、必ずママが出てくるのだ」出だしの文章であるが、このようなおしゃべりが延々とつづくのだ。薫くんは幼馴染のガールフレンドの由美に電話するのだけど、しょっちゅう母親が最初に出てくるので弱ってしまう。携帯電話の今日では想いもよらない悩みであるが。
 薫くんは自分のミスで左足の親指の爪をはがしてしまう。だから由美と約束していたテニスに行けなくなったことを伝えようとして電話をかける。でも由美と話しているうちに、ちょっとした言葉の行き違いで仲たがいになり、肝心な足のことを告げずじまいに電話が切れる。それから、薫くんの足の痛みに耐えながらの涙ぐましい奮闘の一日が始まっていくのだけど、そんな筋を追っても仕方がない。
 五人兄弟(兄二人は東大を卒業)の末っ子で、お行儀のいい優等生で、気がよくて、少しだけケーコートー(蛍光灯)のところもある薫くん。女の子とテニスをするくらいだから、家庭は裕福そうで何の心配もないお坊ちゃんの薫くん。でもそんなに見える薫くんは目下(もっか)のところ「みんなを幸福にするにはどうすればよいか」という大命題と格闘しているのである。くだらないといえばくだらない、いいとこお坊ちゃんの与太話といえば、そのようでもある。
 当時の芥川賞選考委員の感想であるが、三島由紀夫はこう書いた。或る時代の境目に生れた若者の、いろんな時代病の間をうろうろして、どの時代病にも染まらない、というところに、正に自分の病気を見出し、しかもそれが病名不詳で、どう弁解してみても、医者にもわかってもらえない病気の症状、現代の時世粧をアイロニカルに駆使しながら、「不安定なスイートネス」の裡に表現した才気あふれる作品だと思う。石川達三は、甚だ饒舌的で、あり余る才気を濫用したようなところがあり、また日常的な通俗さを無二無三に叩きこんで、ユーモア大衆小説のようでもある。とひととおり肯定してみせて、つぎがある。作家はこういう形をとらなくては現代の複雑な生活の相を捕え得ないのであろうか。小説は今後このような方角にむかって変質して行くのであろうかということをも私は考えて見たが、その疑問をまだ解決し得ないので、この作品を特に推薦することにはためらいを感じた
 「赤頭巾ちゃん」は時代を突き抜ける引力を持った小説であり、は人を喰った小説でもある。薫くんは未来の生活に不埒な空想をする。中村紘子さんみたいな若くて素敵な女の先生について優雅にショパンなどを弾きながら暮そうかなんて思ったり」なにも実名で出てくるのは紘子さんだけではない。
「翌日読んでもらいたいささやかなあとがき」にある薫くんの反省白状文には、作者の「庄司薫」までもが顔をだす。小説の作者とその妻が作中に実名で登場するのは、日本文学有史初めてで、絶後でもあろう。「赤頭巾ちゃん」は当然のようにベストセラーになり、映画化された。現在の東映岡田裕介社長が薫君を演じた。
 赤頭巾ちゃんになったつもりで森のなかの果実をさがしてみよう。そして自分のために、越し方をさまよう旅にするのも良いかも。

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<4月19日生まれに先人の言葉>
橋本左内
 ・目標に達するまでの道筋を多くしないこと。
 ・激流にも耐えうる柱のように揺るぎない信念を心に持て。
源氏鶏太
 ・人間は勇気を失ってはおしまいなのである。甘ったれてはならぬのである。
 ・働くということには、不平や不満がつきまとうように運命づけられている。その宿命に簡単に負けたのではおしまいである。自分を不幸にするだけだ。あえてその宿命に挑戦する気になったら、そして、それによって自分という人間の真の値打ちを知ろうと努力する気になったら暗闇の中に一条の光明を発見できるかもわからないのである。そのためには勇気が必要である。
久世光彦
 ・うまくやろうと思うな。その先に広い世界はない。

    


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