もう一度整理ししてみた。再び西尾久美子著である経営の指南書「花街の経営学」、そして人材育成の極意「舞妓の言葉」から

◆「京都花街の経営学」(西尾久美子著)
 京都で舞妓さんに出遭うと、そこにいる観光客の男性たちは、老いも若きも、外国人でも、皆デレ〜として、鼻の下が伸びる表情になっています。男を虜にする舞妓さんの魔力とは何なのでしょうか。考えてみれば、舞妓さんは、水商売なのに、憧憬と畏敬の念で見られています。その域にまで至った歴史的経過や仕組みがどうなっているのか、前から興味がありました。この「京都花街の経営学」は、神戸大学に与えられた研究費から賄われて、出版された学術的な研究本です。京都花街の数々の疑問が解けた箇所が28ありました。
・「花街」(はなまち/かがい)というのは、芸妓さんや舞妓さんが住んでいて、彼女たちと遊べる店がある街のことを指す。京都にはこのような「花街」が5つあって、「五花街」(ごかがい)と呼ばれている。そのうち4つの花街は徒歩20分以内、遠いところでも車で20分程度という狭い範囲にある。それぞれが独自の特徴を維持して、上手に共存している。この「五花街」には、昭和の初め頃、芸妓さん・舞妓さんが1800人ほどいた。しかし、戦後から急激に減少をし、2010年時点では、芸妓さんが200人程度、舞妓さんが90人程度といった規模になっている。ただし、90年代半ばくらいから芸妓さんの人数は横ばい、舞妓さんの人数は30年ほど前から増傾向になっているのが特徴。ここ10年ほどは、芸妓さんは200人前後、舞妓さんは約80人でほぼ横ばい。ここ数年、京都花街にデビューする芸舞妓さんの数は毎年20〜30人程度。
・昭和初期には、東京で7500人、大阪で5300人いたといわれる芸者さん(東京などではこの呼称が一般的)は、現在それぞれ3百人、20人程度に減少。しかもその傾向が上向く兆しは見えていない。それぞれの人口や経済規模を考えると、その存在感が著しく減退している。こうして見ると、京都の「五花街」が業界として上手に生き残っている。
・お座敷で芸舞妓さんたちと2時間遊んだとすると、その花代は、1人25000円〜30000円程度。
・彼女たちは、夕方6時から夜の12時ごろまで平均3〜4つのお座敷を務める。だいたい1人当たり1日10万円の売上。お昼の写真撮影会など長時間拘束される日もあるので、平均すると、1日当たりの売上は12万円程度になる。
・芸舞妓さんたちの花代は、置屋を出かけたときから帰宅するまでの移動時間にもかかる。つまり、(移動時間+お座敷での時間)×時間単価=花代という計算方法が原則。
・花代以外にも芸舞妓さんたちへのご祝儀も必要だが、お座敷の条件や呼ぶ芸舞妓さんによって異なる。
・芸舞妓さんたちは年間で300日程度はお座敷にでて、稼働率を80%程度とすると、芸舞妓さん1人当たりの年間総花代は、12万円×300日×0.8=2880万円という計算になる。京都花街の芸舞妓さんの人数は2007年現在273名なので、花代の総売上規模は80億円弱と推計できる。
お茶屋で消費される料理や飲み物代にお座敷のしつらえの経費、芸舞妓さんたちの着物、帯、履物、袋物、かんざしなどにかかる費用、髪結いさんや男衆さんたちへの支払い、芸舞妓さんたちの芸事のお稽古にかかる費用を含めると、花街全体で花代の数倍の金額が動いている。
・年季(一人前になる修業期間)の間は、舞妓さんの生活費の面倒もお稽古にかかる費用も、また高額な衣装も、すべて置屋が面倒を見てくれる。置屋のお母さんが愛情、専門的知識、金銭的な資本を注いで、数年かけて一人前の舞妓さんに育て上げる。
・舞妓さんは、まず「日本舞踊」の習得が求められ、女紅場(技能訓練の学校)やお師匠さんの個人稽古など、徹底的に基礎訓練を受ける。
・お座敷芸での「日本舞踊」は、「踊り+楽器の演奏+唄+お座敷のしつらえ」=「もてなし」の芸事として成立する。舞妓さんたちは芸事の習得に励むだけでなく、お客をもてなす気配りも学び、「座持ち」に秀でないと一流になれない。
・舞妓さんを数年つとめ、年季期間を終えた後、芸妓さんとなり、22、23歳で置屋から独立することが多い。置屋さんから独立した芸妓さんを「自前さん」と呼ぶ。
・「体を売る」といったことは、現代では全く行われていない。芸舞妓さんたちに「水揚げ」のような間違ったイメージが、日本だけでなく世界中に流布していることは残念。
お茶屋とは、芸妓さんや舞妓さんを呼んで遊興する場を提供する店。お座敷をコーディネートする職業。
置屋とは、芸妓さんや舞妓さんをお茶屋さんへ送り出す芸能プロダクションのようなところ。置屋から見れば、芸舞妓さんたちは、抱えるタレントのような存在。
・一見さんお断りとは、現代の言葉で言えば、会員制ビジネス。
・一見さんお断りが生まれた背景には以下の3つのポイントをあげることができる
(1)債務不履行の防止(2)顧客情報にもとづくサービスの提供(3)生活者と顧客の安全性への配慮。これは、「京都の花街は敷居が高い、」というイメージにつながっているが、しかし、サービス提供の構造を理解すると、これは非常に合理的な仕組みだといえる。
 具体的には「お茶屋さん」が、お客様に満足していただくお座敷をプロデュースするためには、そのお客様のことをよく知っている必要がある。しかし、「一見さん」に対しては、どういうお座敷を用意したら良いかが、まったくわからない。相手のニーズがわからないままにいい加減なサービスを提供したら、自分たちの評判が下がってしまう。そのリスクを回避するために、あらかじめ好みを把握できるお客様=一見ではないお客様、にサービスを限定している。
お茶屋のなじみ客となることは、取引関係における安全性はもちろん、氏素性、マナーもきちんとしていると認められたことになる。お茶屋遊びは信頼の証であり、一つのステータスとなる。
・一見さんお断りの京都花街のもう一つのルールは「宿坊」というルール。お客は一つの花街につき一軒だけのお茶屋を窓口として遊ぶという暗黙の了解のこと。顧客がよそのお茶屋のお座敷を希望したら、その希望を優先する。
・これらのルールがあるからこそ、「よそのお座敷」を顧客に紹介し、顧客の選択肢の多様性を確保し、お茶屋同士が競いながら営業機会を逃さないという花街全体のしくみが成り立っている。
・花街は遊びの世界であるが、顧客に対して、お座敷遊びの手ほどきだけでなく、大人としてのマナーや文化的教養を伝え、人付き合いの機微など、お金や地位だけでは尊敬されることがないビジネス世界で生きていくための教育もなされている。
・芸舞妓さんの一生、キャリアの流れ
(1)仕込みさん(舞妓さんとしてデビューするまでの約1年間の修業期間)
(2)見習いさん(デビューする日が決まって、約1カ月の実地研修期間)
(3)見世出しから1年間(デビュー後1年は長い花のかんざしや下唇に紅をさし、新人舞妓と一目でわかる)
(4)舞妓さんになって1年後(場に応じた受け答えなど求められる)
(5)舞妓さんになって2〜3年後(大人びた雰囲気の日本髪を結い、後輩の面倒も見る)
(6)「衿替え」して芸妓さんになる(かつらを使うようになり、お座敷での段取りが求められる)
(7)自前さん芸妓さん(5〜6年の年季期間を終え、一人暮らしを始め、日本舞踊の立方か三味線や唄の地方のどちらかを選択)
(8)廃業後のキャリア・パス(自分の意思でいつでも廃業でき、廃業後は花街の経営者になることが多い)
・新年の歌舞練場での始業式では、舞や邦楽も披露されるが、それだけが式の目的ではない。前年の売上成績のよいお茶屋、芸妓さん、舞妓さんを表彰する。ランキング上位の芸舞妓が金屏風の壇上で表彰状を受け取る。
・芸舞妓さんたちの花代の売上は「見番」を通して管理されている。芸舞妓さんの花代ランキングだけでなく、お茶屋の花代の売上も発表される
・見番を通さずにお茶屋置屋が取引することは花街では認められていない。見番を通すことで、取引の癒着を避け、ダンピングなど価格が崩れないようなシステムができている。花代からは一定の割合の金額が、組合や学校の運営費にもあてられ。この公正さが花街のコミュニティの維持運営に欠かすことのできない大切なポイント。
・芸舞妓さんたちの公式な技能育成の場は、祇園甲部の「八坂女紅場学園」、先斗町の「鴨川学園」、宮川町の「東山女子学園」の3つ。日本舞踊、長唄・小唄・常磐津などの邦楽の唄、三味線・鐘・太鼓・鼓・笛などの邦楽器の演奏が教えられ、さらに立ち居振る舞いの訓練になる「茶道」も必須科目
・同じ型を学んだ、花街の芸舞妓さんであれば、お座敷の場で、「型」が揃った美しい技能の発露ができ、集団としての芸の質向上にもつながっている
宝塚歌劇団の設立者である小林一三は、花街で遊興していたので、花街の芸舞妓育成の学校制度を参考にして、宝塚少女歌劇に学校制度を導入した。
お茶屋が接待の場になることが減り、お座敷の需要は減少しているが、お座敷以外の場所や観光分野で芸舞妓さんたちは活躍し、花街の売上に貢献している
●接客サービス業、付加価値の高い仕事、無から有を生む商売に携われている方にとって、「京都花街の経営学」は学ぶべき点が非常に多い。京都花街には、日本文化に根差した、経営の仕組み、人の管理の仕組みがある。日本の人材育成方法は、舞妓さんが参考になり、「故きを温ねて新しきを知る」ということも大事ではないか。
「なぜ、経済の中心でも政治の中心でもない京都の花街が生き残ることができたのか。」
・分業化による「品質維持」のメカニズム
花街では、長い間、お客様の好みや、その時々のニーズに応じたものを柔軟に揃えられるように、独立した専門家たちが共同してサービスを提供するという形がとられてきた。このやり方は、江戸時代くらいまでは全国の花街で共通だったようである。しかし、東京では、時が経つにつれて、料亭が、場所の提供から料理、芸妓(芸者)まで、すべてを自前で抱えるようになった。大阪では、大規模な料亭が芸妓育成の学校を併設した。けれども、その流れに京都は乗らなかった。実はこのことが、現在の明暗を分けていると考えられる。京都は、明治維新までは文化の中心であった。しかし、維新で皇室が東京に移ってしまったため、経済・政治の中心でないだけでなく、文化の中心でもなくなった。つまり、放っておいてもお客さんが来てくれるという環境ではなくなった。そこで改めて「分業化」による品質の維持ということを強烈に意識したのではないか。すべてを内製化してしまうと、質の競争がなくなってしまうから。
 現在、京都の花街の構造は、サービスの提供側という括りでみると、四つのグループに分けて考えらえる。「お茶屋さん」「置屋さん」「料理屋」「しつらえ提供業者」です。これらを、ビジネス的な言葉で説明すると、
 ①「お茶屋さん」 → イベントコーディネート・プロデュース会社
 ②「置屋さん」 → 育成機能をもった「人事部」アウトソーシング会社、タレント・プロダクション。
 ③「料理屋」 →  ケータリング会社
 ④ 「しつらえ提供業者」  → インテリアコーディネイト会社
といったところでしょうか。それぞれは完全に独立して商売を営んでいる。その中で、プロデューサー・コーディネーターである「お茶屋さん」が、顧客のニーズや好みに合わせた組合せを考え、ひとつのお座敷をコーディネートしていく。
 「お茶屋さん」が繁盛するかどうかは、お客様が提供されたサービスにどれだけ満足したか、にかかってくる。「お茶屋さん」は、各専門家から提供されるサービスの品質にはとても敏感。「置屋さん」「料理屋」「しつらえ提供業者」は、常にそうした厳しいチェックの目に晒されているから、自分たちの専門分野で質の高いサービスを常に提供し続けるために、努力を怠ることはできない。
・「お茶屋さん」の要求に、「単なる安さ」という要素は入りらない。要求されるのは、「いつものもんを、いつものように持ってきてほしい」ということ。ただこの「いつものもん」というのは、いつも同じように規格通りのものを持ってこい、ということではない。季節に合わせて味を変えるなど工夫をして、「いつもお客さんが喜んでくれはるように」という意味である。それをきちっと考えて実行する、専門家としての高度な質を求めている。一方的に「お茶屋さん」が強いというわけではなく、逆に、あるお茶屋さんのお座敷のコディネートの質が下がっていると関連事業者が感じたら、皆、そこからくる仕事の依頼を、第一優先として自分たちの経営資源を振り向けなくなる。このように、いい意味での相互チェック、相互評価が機能し、花街全体のサービスの質が保たれてきた。それぞれの専門家が独立していることの価値はここにある。
・まず、京都の花街の世界が、全体として相互評価の上に成り立っている。相互チェック・相互評価というのは非常にシビアな世界。その中で新人を育成していくためにうまく役立っているのが、「舞妓さん」という仕組み。
 1. 仕込みさん
 舞妓さんとしてデビューするまでの約1年間の修業期間のこと。舞妓さん候補は、中学卒業後、身のまわりの簡単な手荷物だけで置屋さんでの住み込み生活を始める。この期間に舞妓さんとしての基本的な行動規範や伝統的な芸事のスキルを身につける。服装は普段着、お化粧もしない。
 2. 見習いさん
 舞妓さんとしてデビューする日が決まると、研修をさせてくれる「見習い置屋」に毎日通い、お座敷を見学させてもらう。その期間約1カ月。髪は地毛で日本髪を結い、着物は舞妓さんとほぼ同じものを着るが、帯の長さなどで、はっきりと「見習いさん」であることがわかる。
 3. 舞妓さん
 見習い期間を終えると、正式に舞妓さんとしてデビューする。ここから約4,5年、OffJT(芸妓さん、舞妓さんのための学校があります)、OJTの組合せでスキルアップをしている。着物は振りそで、帯は「だらり」と呼ばれるもの、髪には花かんざしをつけ、履物は「おぼこ」。ただし、経験年数に合わせて、着物、かんざし、化粧などがだんだんと、大人びた雰囲気のものに変わっていく。
 4. 衿替えをして芸妓さんに
 舞妓さんになってから4、5年目、20歳前後で芸妓さんになります。芸妓さんになるとかつらを使うようになり、花かんざしもささない。また、着物も振袖から短い袂のものに、帯もお太鼓、履物も草履や下駄になり、大人としての美しさを表現する装束になる。
 5. 自前さん芸妓さん
 通算約5〜6年の年季期間があけると、「自前さん」と呼ばれる、言ってみればインディペンデントコントラクターの芸妓となる。置屋での住み込み生活を終え、自分で生計を立てていく。その後、立方と呼ばれる日本舞踊専門の芸妓になるのか、地方と言われる三味線や唄の専門の芸妓になるのかを選択することになる。もしくは、芸妓をしながら自分の店を兼業したり、置屋お茶屋になっていく人もいる。いずれにしても、自分の得意分野を知って、キャリア選択をすることになる。
 こうした舞妓−芸妓のステップアップがある中で、まず服装や身だしなみで、今彼女たちがどのような段階にいるのかが明確にわかるような仕組みになっている。例えば、下唇にしか紅を差していない舞妓さんの写真を見たことがありませんか?あれは、1年目の舞妓さん。誰にでもわかる「初心者マーク」が付いている。しかもそれは、15歳なら15歳なりの美しさやかわいさが引き立つように工夫されている。そこで、相互評価の時にも、その時点で求められるものに対してどうか、という評価がしてもらえるようになっている。
・「教育」に対する考え方
<景気や個別の事情に左右されない教育システム>
 京都の5つの花街すべてが、それぞれに芸舞妓の教育機関を持っている。5つのうち2つは学校法人ですある。これらの学校は、組合費や、花街全体で行ったイベントの収益を使って運営されている。つまり、景気変動などの要素で教育費が削られないように、また、個別の事情で一部の芸舞妓が教育を受けられないということがないように、常に一定の財源を確保できる仕組みができている。人材の質を高く保つための仕組み。こうした仕組みは、明治時代の初期からあって、講義の内容は変化しながらも、今も綿々と続いている。
また、舞妓さんは置屋さんで暮らすことになっている。これは、まだまだ未熟な時代に、売り上げが上がらなければ明日のご飯に困る、といったひっ迫した状況に追い込まれることがないように考慮された仕組み。若いときには、じっくりと稽古に励んで、いろいろなことを学ぶことができる環境を整えている。
<一生教育>
 学校では、まず、日本舞踊を教える。また、日本舞踊のリズムを体得させるために邦楽の楽器や唄も教えるようになった。昔は普通の生活の中に邦楽のリズムがあったので、舞踊だけを教えても上達が早かった。しかし、今は洋楽のリズムが溢れているため、感覚として邦楽リズムが身についていない。そこで、楽器や唄を一緒に教える。すると踊りの上達が早くなるとか。そうした時代の変化には敏感に対応している。そして、立ち居振る舞いの基礎として茶道も学ぶ。このように説明すると、学校は舞妓さんが基礎を学ぶところ、と思われてしまうが、花街で芸舞妓として仕事をする限り、全員がこの学校に通う。花街を去るまでずっと、です。芸の世界には終わりがなく、常に芸を磨く必要がある、という信念のあらわれ。
<「見て覚える」の実践>
 学校は、日本舞踊や邦楽、茶道などの具体的な技術を身につけるところではあるが、同時に一般的な作法なども自然に学ぶ場にもなっている。新人の舞妓さんたちは、始業前に学校に行って、座布団を並べたり、お茶を用意したり、先輩が来る前にいろいろな準備をしておかなければならない。日常のお作法を学んでいく。例えば、座布団の裏表の見分け方など些細だけれど、おもてなしに大切なことをひとつひとつ実践で学んでいく。
 また、稽古の順番は経験年数順。つまり、若い舞妓さんが稽古をつけてもらえるのは最後の方。ですから、自分よりも技術が上の先輩の稽古を沢山見ることになる。これも、非常に勉強になる。これらの学校での、「習うより、慣れろ」「見て覚える」ことが自然にできることの実践。
<お座敷の質にもダイレクトに貢献>
 花街毎に学校があり、芸舞妓全員が通っているメリットは、「共通言語」ができる。それぞれの花街で教える流派は異なる。しかし、逆にいえば、同じ花街に属する芸舞妓さんは、学校を通じてすべて同じ流派を学んでいるということになる。すると、最初に言ったように、お茶屋さんがお客さんに一番よいサービスを提供するために、複数の置屋さんから芸舞妓さんを呼んだとしても、皆同じ学校で学んでいるから、短時間で打ち合わせをして踊りなどの出し物を決定できる。
 また、そうした混合チームでお座敷を組んだとき、誰がリーダーになるかは非常に明確で、花街に入って一番経験の長い人が、どういう立場であってもそのお座敷でのリーダーになる。その下も、すべて経験年数で序列が決まる。ですから、もめることもなく、自分の役割が非常に明確にわかりやすい。また、そのグループに新人がいたら、彼女の面倒を誰がみるかも明確にルールが決まっている。まずは、「名前を分けたお姉さん」。もしその立場の人がいなければ、同じ置屋の人。そうした人がいない場合には、見習いに行っていたお茶屋さんが同じ人。責任の所在が非常に明確になっている。
 京都の花街を調査してきて、東京や大阪の花街と一番違うと感じるのは、若い人を継続的に育てる仕組みが機能している点。京都では、花街の将来を考えたら、質の高い若い人をボリュームゾーンとして持っておくことが重要。
<明確な評価制度>
 芸舞妓さんの評価は、お座敷にかかわるすべてのプレーヤーが常に評価をする仕組み。
そうした評価は、お茶屋さんから声がかかる、お客さんが呼んでくれる、従って売り上げが上がる、という明快な結果として表れる。実は、芸舞妓さんの「花代」は、同一労働同一賃金。デビューして1日目の舞妓さんも、芸歴50年の芸妓さんも、お座敷に呼ぶ時間当たりの単価は一緒なのです。こうして同一労働同一賃金が実現しているメリットのひとつは、評価基準が統一される。花代に見合った仕事をしたかどうか。お茶屋毎に異なった評価が行われるということはない。一人ひとりの芸舞妓さんが貰った花代については、置屋さん、お茶屋さんそれぞれが、花街毎にある「見番」(花街の管理事務所のような機関)に届ける仕組みになっている。そこでつき合わせが行われて、一人一人の一年間の実績の順位が集計される。その順位は、お正月に行われる、各花街の学校の始業式で発表になります。その花街にいる芸舞妓さん全員が、花代というひとつの基準で、ランク付けされる。
 順位は一般には公表されることはなく、長年経験を積んだ地方(じかた)の芸妓さんが上位に顔を出すことも多いとか。舞妓から芸妓になると、芸に対する周囲の目が非常に厳しくなる。しかも、インディペンデントコントラクターとして生き抜いていくためには、みんな必死に芸を磨いている。
<最近の動き>
 最近の舞妓さんの「採用」では、「インターンシップ」を取り入れている。夏休みに1週間とか2週間、実際の生活を体験してもらう。
 いったん置屋さんが決まってしまったら、後から「向こうの置屋さんの方が合うから変わりたい」ということは許されない。また、最近は個人主義的価値観が強いですから、昔ながらの人間関係にどうしても馴染めない若者も少なくない。途中で辞められたときの置屋さんへのダメージは大きいし、本人の人生を左右する。花街の生活を、イメージではなく実体験を通じて理解してからこの世界に入ってきてもらうための仕組みとして、活用されている。
芸舞妓さんのキャリアも選択肢が広がっている。通常は、一生花街で芸妓として暮らすことを前提に、「自前さん芸妓さん」になって数年経ったところで、立方と呼ばれる日本舞踊専門になるのか、地方と言われる三味線や唄を専門にするのかを選択。最近では、一生芸妓で通す以外の選択をする人も増えている。花街に残ってお茶屋置屋の経営者を目指す人もいますし、地元に帰って京風割烹を開いているような人もいる。いずれにしても、彼女たちはおもてなしの基礎がしっかりとできているから、応用力がある。まさに「京都ブランド」である。

◆「舞妓はんの言葉〜〜心に「芯」を作る京都花街の教え」西尾久美子京都女子大学現代社会学部准教授
1.舞妓さん育成の秘密
 私は、ここ数年、京都の「舞妓さん」たちの育成について、経営学の視点から調査研究を重ねてきました。今の京都の舞妓さんは、もともと花街にゆかりはなく、中学卒業後自らの意思で「舞妓さんになろう」と決心し、花街の扉をたたいた妓が大半です。そんな彼女たちが厳しい伝統文化の中でどのように育成され、プロフェッショナルとして成長するのかを知りたくて、実際に多くの舞妓さんや京都花街の関係者に会ってお話をきき、それを本や論文などにまとめました。
 実際に10代半ばの少女たちが、舞妓さんとして周囲との関係を作り、支えられ、また後輩たちへ助言をしていく姿を多く見るなかで、彼女たちが「あっ」と何かをつかみとる瞬間に数多く立ち会うことができました。今やっていることと過去の経験をむすびつけ、自分なりにそれらの意味や意義をみつけて「そうなんや」と納得しているのです。そして、この力が伸びていくと、将来の不安にめげそうになりながらも、若いからこそ必死に模索を続け努力し、舞妓さんとして、またプロとしての自分の「芯」を作ることができるようになるのです。京都花街では、運がいいと道を行く舞妓さんの姿を目にすることができる。
 舞妓さんたちが何か「あっ」を発見するために絶対不可欠な、育成される過程で周囲から教えられる「言葉」を紹介していきます。現代の若者にはとても耐えられないと思われるような厳しい修業を経て舞妓さんになる若い少女たちは、自分で自分を勇気づけモチベーションを高める「励み」、周囲の状況と折り合いをつけ過剰に傷つかないようにする「癒し」、そして関係性の中で信頼を築き自分の役割を知覚する「気づき」を促す、含蓄のあるよい言葉を周囲の人たちから教えられ、それらを自分のものとして歩みをつづけているのです。
 350年続く伝統産業である「京都花街」が、現代の10代半ばの少女たちを舞妓さんというプロフェッショナルに育成できる秘密は、すぐれた育成の仕組みだけでなく、個人が自律的にキャリアを作ることを促す、まるでオマジナイのような効果をもつ言葉の力にもあるではないかと思います。京ことばは、婉曲的に相手に理解してもらうことを促すとよくいわれいます。1000年の都と呼ばれる京都は、非常に多くの人たちが訪れ定着し作られた街であるため、歴史的に、多様な立場の人々が対立をさけつつ自分の主張をきちんとすることが求められてきた結果、このような婉曲的な表現が好まれるようになったといえます。
 とくにサービス業である花街は、顧客の要望をそれとなくつかみ、顧客への直接的な指示などを避けつつも無理無体な注文を排除しようとするために、言葉に磨きをかけただろうことは想像に難くありません。さらに舞妓さんたち自身が個人としての技能を磨き、お座敷でチームプレーを阿吽の呼吸でこなす力をきちんと伸ばすために、育成の過程でたくさんの人からさまざまな言葉をかけ続けられています。京都花街の人たちは、単に柔らかい言葉だから京ことばを使うのではなく、その洗練された穏やかな表現のうちにある多様なニュアンスを汲み取り、自分のものとして自在に使うことで、厳しい美的価値判断を沁み込ませているように私には思えました。だから、京都以外の出身者が多くを占めるようになっても、舞妓さんたちは京ことばを身につけなければならないのでしょう。京ことばは若い芸舞妓さんたちにとっても、精神の支柱になっているように感じられました。
 考えてみればこの20年以上、若い人たちは、やる気がない、粘りがない、我慢ができないなどと、よくネガティブな表現を用いて形容されています。今の若者を育てるのは難しい、すぐに辞めてしまう、壁があると乗り越えられないなど、育成の現場の人から嘆く声を聞くことも多いです。
 でも、若者が変わったのでしょうか?いつの時代も若者は、未経験で、自信がないけれど自分を認めて欲しいと願っていたはずです。そのために、先達と呼ばれる人からのちょっとしたアドバイスや、励ましの一言が、きっとあったはずなのです。舞妓さんたちは、自分で納得し考えて芸事に取り組まないと、修業の途中で壁を越えられず、厳しさに音を上げてしまうそうです。周囲の人のアドバイスに耳を傾け、そして若いから未熟からだからと言い訳をせずに、自分のできることを必死に努力する。身についた成果を発表し、その反省点をたくさんの人から示唆され、落ち込みながらも明日を信じてまたやってみようと思う。その繰り返しで、舞妓さんたちは自分を磨いています。
 花街のやわらかな京ことばは、折れることなく自分を勇気づけ、一方で舞い上がることなく冷静に自分を見つめ、さらに自分の周りにも配慮しよい関係性をつくることにつながります。これらの言葉を少しずつ知っていいただくことで、舞妓さんたちと同じような、自分の「芯」をもっていただくことができれば、筆者としてこれにまさる喜びはありません。それでは、「舞妓はんの言葉」を、1つずつご紹介していきたいと思います。
2.舞妓さんのもっとも大切な3つの言葉
・「おおきに」
 「舞妓さんになりたい!」という夢を実現するために京都花街にやってくる少女の大半は、花街や伝統芸能には縁もゆかりもない、中学卒業直後の10代半ばの少女たちです。そんな彼女たちが最初に覚えなければならない京ことば、それが「おおきに」(ありがとうの意味)です。もてなしのプロである舞妓さんになるためには、新しい環境で周囲の人とうまく人間関係を築き、短期間にたくさんのことを身につけていかなければなりません(修行開始からわずか1年で、京ことばやお座敷の礼儀、京都花街の伝統、踊りなどを一通り修めることが求められます)。そのために、毎日毎日、何十回も、ときには何百回も口にする、短いけれどとても大切な一言なのです。
 お座敷で芸妓さんや舞妓さんたちの会話に耳をそばだてていると、「○○さん姉さん、おおきに」と言っていることが多いです。「姉さん」とは、先輩である芸妓さんや舞妓さんを指す言葉ですが、目の前の姉さんに言うのであれば、単に「おおきに」ですむように思われます。ですが、それでは不十分なのです。「○○さん姉さんはたくさんせんなんことがあるのに、うちにまで配慮してくれはって、本当に感謝しています」という意図を明確に表さなければなりません。自分を育ててくれている周囲の人たちの意図への理解と、それを自分に実行してもらうことへの感謝を、育成される側の自分は明確に気づいているということを、「おおきに」という言葉にこめて言えるかどうかがポイントです。
 誰でも自分のスキルは磨きたいから、努力しようと思います。では、努力をどのようにすればいいのでしょうか?未経験者にはそこがわからないから、周囲の人のアドバイスが大切なのです。舞妓さんになりたいと願う少女たちは、先輩たちが自分のことを見てくれ、アドバイスをしてくれることへの感謝を、「おおきに」という言葉を最初に身につけることを通じて教えられるのです。些細なことに思われるような出来事1つひとつに、きちんとその場で素直に「おおきに」と言える新人さんは、「○○ちゃんは、ええ舞妓はんにならはるえ」と、みんなから認められ育っていくのです。
・「すんまへん」
 「ありがとう」と「ごめんなさい」、この2つを現地の言葉で話せれば、外国語が流ちょうに話せなくても気持ちのよいコミュニケーションをすることができるといわれますが、舞妓さん希望者たちにとってもそれは同様です。京都花街の文化や慣習に馴染む過程で失敗はつきものですから、そんなときに「すんまへん」とすぐに謝れるかどうかはとても重要なことです。
 「すんまへん」とすぐに言えない新人さんは、「どんな別嬪さんでも、ええ舞妓はんになることは難しおすなぁ」と、舞妓さん希望者を預かる置屋(舞妓さんが修行のため住み込む場所)のお母さんや、舞妓さんたちの仕事をコーディネートするお茶屋(実際にお座敷をもち、お客をあげて接待するお店)のお母さんたちはよく話しています。舞妓さんになるためには、美しい立ち居振る舞い、伝統的な芸事、京都花街の習慣など、身につけなければならないことがたくさんありますから、当然のことながら1日に何回もしくじってしまいます。このときに、すぐに「すんまへん」と言えるかどうかを、周囲の人たちは見ているのです。
 なぜ失敗したのか原因を探求し理由を言うことよりも、失敗を認めてすぐにきちんと謝ることが大切なのです。その様子を見て、お姉さんやお母さんは、「ああ、この妓は迷惑かけたことがわかっているなぁ。そして、すぐに謝って他人の話を聞く素地があるなぁ。ほな、教えてあげよう」と、2度と同じ失敗を繰り返さなくていいように、アドバイスをしてくれます。失敗したことでだれでもプライドは傷つきます。でもその痛みを認めて謝るからこそ、周囲のサポートが得られて、同じ失敗を2度とせずに着実に次に進めるように、より気をつけていくことができるのです。「すんまへん」は、非難を受け流すとか恥じ入っているといったために口にするのではなくて、失敗を認めて明日へ踏み出すための言葉なのです。
・「おたのもうします」
 お座敷にでれば、舞妓さんはおもてなしのプロとして見られます。16歳でも17歳でも、京ことばに自信がなくても、芸事の経験が少なくても言い訳はできません。そんな彼女たちにとって、実はこれだけ話せればお座敷が務まるといわれる3つの京言葉があります。それが、先にご紹介した2つの言葉「おおきに」と「すんまへん」、そしてここで紹介する「おたのもうします」です。お礼を言うこと、そして謝ること、それからお願いしますと、相手に対して敬意を払うこと。その場に応じてこの三つの言葉をきちんと使いわけることができれば、プロとして「おもてなし」の第一歩を踏み出せるということです。
 「よろしゅう、おたのもうします」と、舞妓さんたちはよく使います。初めて舞妓さんになった日にも、お祝いにかけつけた周囲の人に「よろしゅう、おたのもうします」と挨拶をします。しっかり見てください、導いてくださいと、扇子をもち、頭を下げる舞妓さんには、プロとしての気品が滲みます。また、自分たちの芸事をお師匠さんやお客に見てもらうときに、言葉として口にすることもあれば、胸の内で「どうぞ、よろしゅう、おたのもうします……」と言葉を反芻しながらお辞儀することもあります。
 プロとして仕事をすることは、責任をもって自分の役割を務めることです。心配をしても自分の能力以上の力を発揮することはできませんし、まして相手がそれに対してどのような評価をしてくださるのかまで差配することはできません。開きなおりではなく、精一杯の技能をお見せするように努力しますので、どうぞよろしくお願いいたしますと、頭を下げるのです。
 いくら立派な技能でも、だれかがその価値を認めてくれてこそ、自分にとって甲斐があるのではないしょうか。舞妓さんたちは「おたのもうします」と言いながら、どのような評価でもそれを自分で受け止め、これから励みますという気構えを自覚するから、凛としてお座敷に立てるのです。
3.舞妓さんの「多面的な気遣い」を育む言葉
「お目だるおした」
 お座敷で日本舞踊を披露した後、舞妓さんたちは丁寧にお辞儀をし、部屋からいったん下がってしまいます。そして、再びふすまを開けて、扇子を置き座り直して、「お目だるおした」と挨拶をします。最近ではほとんど使われなくなった「目だるい」という言葉をお茶屋さんで聞いたとき、私は久しぶりで懐かしいと思うと同時に、はっとしました。
 明治生まれの祖母と一緒に暮らした私は、舞妓さんが口にする「お目だるおした」という意味がよく理解できます。「うちがさっき披露させてもろうた舞は、お客はんにとっては見てられへんほどひどいものどした」と謙遜し、改まって挨拶したのです。そして、「見てもらえへんようなレベルの芸事をよう見てくれはって、おおきに」、ということも彼女たちは伝えています。芸事がわかっている地元のお客であっても、初めて舞妓さんを見る海外のお客であっても、見る側の目利きの技量に関係なく、あくまでも謙虚に構えます。その上で、技能発揮の場をもらえたことにも感謝しているのです。
 舞妓さんとしてデビューするためには、日本舞踊のお師匠さんからお許しを得なければなりません(試験があります)。ですから、本当は彼女たちの舞が「目だるい」はずがありません。彼女たちはもてなしの現場で舞を披露するプロとして、料理屋さんの金屏風の前でも、お茶屋さんの三畳の板の間でも、洋風の宴会場に敷物を敷いただけの場所でも、いつどのような状況でも、一定レベル以上の技能を見せる技量と、その責任を自覚するプロ意識をもっているのです。
 そんな彼女たちが、新人のときはもちろん、何年経験を積んでも「お目だるおした」ときちんと言葉にするのは、自分が技能を発揮できることを素直に喜びつつも、上には上があることを自覚して、他者の視点で自分の技量を見ようとしているからです。自分の技能に自信をもつ一方で、絶えずそれがお客にとって価値あるものかと考える、そんな多面的な心遣いが、毎日「お目だるおした」と口にすることで、自然と身につくようになるのです。
「気ばりとぅおす」
 京都の花街には、芸妓さんや舞妓さんたちが通う学校(女紅場と呼ばれます)があり、年齢にかかわらず、現役の芸舞妓さんであれば、かならずこの学校に在籍することになっています。そして、新年恒例の学校の始業式では、黒紋付きに稲穂のかんざしの芸舞妓さんたちが集まり、新年のお祝いをすると同時に、前年の売上や芸事の精進の成績によって表彰も行われます。入賞できた妓は、「おおきに」とお姉さんやお母さんにお礼を述べると同時に、「今年も、もっと、気ばりとぅおす(きばりたいです)」と、現状に甘んじずに、前向きな意欲の気持ちを言葉にすることが多いです。
 京都花街では、努力するというときに、「がんばる」よりも「気ばる」という言葉が好まれます。それには、単なる用語の違いではなく、実は深い意味があるように私は考えます。 「気」を張る、つまり自分の気持ちのアンテナをしっかり伸ばし周囲との関係性に配慮しつつ努力したほうが、より効率良く自分の力を伸ばせるということです。「が=我」を張ることは自分ひとりのがんばりですが、「気ばる」なら、自分を取り巻く人間関係を使って多面的で多様な視点のサポートを得て、自分の能力を伸ばすことにつながります。
 舞妓さんたちが「気ばらしてもらいますので、よろしゅうおたのもうします」と言うたびに、周囲の援助をキャッチし、そのうえで自分で工夫しつつがんばりますという、きちんとした意思表示に私には聞こえます。そして、思わず私も「お気ばりや」と、あどけない笑顔がかわいい舞妓さんに声をかけ、応援してあげようと感じるのです。
「おかげさんどす」
 舞妓さんの毎日は、朝から晩までみっちりとスケジュールがつまっています。朝10時ごろ〜午後2時ごろまでは学校(女紅場)、夕方からお化粧に着付け、午後6時ごろから日付のかわるころまでお座敷と、眼の回るような忙しさです。その上に、四季折々の行事ごとも多く、デビュー直後の1年間は、「ほんまに、毎日、毎日、夢中どした」と、話してくれる舞妓さんが多いです。お紅をしっかり引けるようになった舞妓さんに(1年目は下唇にしかお紅をさすことができません)「よう、1年気ばったなぁ」と声をかけると、「おおきに、おかげさんどす」と、お礼の言葉「おおきに」とともに、「おかげさんどす」と感謝の言葉が返ってきます。私は特別親切にした覚えはありませんが、「おかげさま」と言われるのです。「うちが1年間気ばらせてもろうたのは、○○さん姉さんのおかげなんどす」と、いつも親身になってもらっている人に対して「おかげさんどす」と言うことには違和感はありません。でも、直接関係のない私にも、なぜ「おかげさんどす」と言うのでしょうか?
 それは、見守られていることへの感謝だと私は思います。常日頃誰に何をしてもらったか、行為を特定して感謝することも大切です。でも、置屋お茶屋のお母さん、芸妓さんように関係性がはっきりしている誰かだけでなく、舞妓さんになる過程には、たくさんの人たちの見えない支えがあります。お紅を上下の唇にさせたことに対してかけられた祝いの言葉を、単に様子を見られているととらえるか、見守られることに感謝して受け取るかが、周囲に人たちとよい関係を築けるかどうかにかかわってきます。誰かから見守られていると思えるからこそ、今すぐに成果がみえなくても、手を抜かずにしばらく努力を続けてみようと励む、ひたむきな気持ちが湧くことにつながるのです。
4.舞妓さんのモチベーションを高める言葉
「言うてくれはる」
 新人の舞妓さんたちには、毎日、周囲からさまざまな言葉がかけられます。「気ばって、お稽古しているなぁ」といったうれしい言葉も時にはありますが、「かんざしの挿し方、こうしたほうがええ」、「帯をバタバタさせたら、じゃまになるさかい、気ぃつけてや」などと、自分の不十分なことを指摘される耳の痛いことがほとんどです。そのたびに、「すんまへん、○○さん姉さん、気ぃつけます、おおきに」と、謝ると同時に指摘されたことにお礼を言います。そして、置屋に帰って、いつどこでだれから何を「言うてもらった=指摘をうけた」のかを、きちんと報告しなければなりません。
 新人の舞妓さん本人は必死でお稽古したり、お座敷をつとめたりしているつもりですが、経験が乏しい新人の様子は、先輩にとっては未熟なことばかりです。耳の痛いことを言うのは先輩としても決して気持ちのよいものではありませんが、お座敷では、経験年数に関係なく「舞妓さん」というプロフェッショナルとしてお客様の前に立つのですから、サービスの品質を保つためには口にしなければなりません。さらに、新人だからといって周囲から期待されている舞妓さんらしい振る舞いができないことは、目の前にいるお客様に適切なサービスが提供できないだけでなく、京都の「舞妓さん」全体のイメージの低下につながるような、大きな問題にもなってしまいます。
 誰でも、不十分でもがんばっていることを評価されるような声かけが欲しいと思います。でも、それだけでは、適切な努力を促すことにつながりません。耳が痛いことでも「言うてくれはる」と受け止めることで、周囲から自分の評価をもらえることを心から「おおきに」と受け止め、それを生かして今後の自分を創っていく自覚につながっていくのです。
「見ててくれはる」
 失敗すると、だれでも「しまった」と思います。新人の舞妓さんたちも少し慣れてくると、自分のした失敗がわかるようになります。そしてそれを他人から指摘されることは、わかっているから余計に辛く感じます。「うち、ほんまに毎日、毎日失敗ばっかりで、すんまへんと、今日かて何べん言うたかわからへんほどどす。お母さんにも、うちが鈍(どん)やさかに、ほんまに申し訳のうて」と、あどけない舞妓さんが少し伏せ目がちに話す姿を見ると、こちらもかわいそうな気がします。そんなとき、彼女の置屋のお母さんが「お姉さんやお母さんは、あんたのこと、ちゃんと見ててくれはんのえ。どうでもええと思うたら、何にも言うてくれはらへんし、あんたのことを見ぃもしてくれはらへんえ」と、言葉をかけていました。
 人から何か「言われる」前には、「見られる」ことが必要です。そのことがわかった新人の舞妓さんは、きっと失敗を教えてくれる先輩のお姉さんたちから見守られていると感じ、たとえ年齢の離れた厳しい芸妓さんでも、自分と近しい距離の存在だと思うことができます。自分の失敗を周囲の人から指摘されたときに、「何でわかったのだろうか? ○○さんは、私のことをいちいちチェックして、失敗をあげつらうためかも」とネガティブにとるか、「私がちゃんとできているかどうかを、○○さんは、見ててくれはるんやなぁ、忙しいに、ありがたいなぁ」とポジティブに感じるかでは、今後の自分と周囲の人との関係性の築き方に大きな違いが生まれます。見られる対象になることを、組織の一員として受け止められていることだと思えれば、周囲のサポートを前向きに受け止め、自分の技能を磨くことにもつながるのです。
「かわいがってもらわんと、あかんのえ」
 芸妓さん、舞妓さんたちは、「プロジェクト・チーム」のように仕事をしています。お客様の依頼をうけたお茶屋のお母さんが、その内容に応じて芸舞妓さんたちを集め、多様な場所で「お座敷」をコーディネートします。宴席の場だけでなく、地方のデパートやイベント会場に出かけて京都のPRをしたり、海外で日本舞踊やお茶のお手前をしたりと、仕事の場が大きく広がっています。
 お座敷では、集まったメンバーの技能に応じて役割を考慮し、質の高いおもてなしができるように、経歴の一番長い芸舞妓さんがサービス内容を組み立てていきます。多いときには芸舞妓さん20人以上が1つのチームとしてお座敷をつとめることもあり、「1年目は、毎日毎日が精一杯で、あんまり覚えてへんのどす」と、真剣なまなざしで当時を思い出して話してくれたほど、新人さんは必死で暮らしています。
 プロとして仕事をする以上、担当としてやるべきことを一生懸命することは当然です。さらに、チーム全体としてよりよいアウトプットを作るためには、それとなく様子を見ている周囲の人からアドバイスを受けやすい雰囲気を自らかもし出すことが重要です。
 置屋のお母さんは新人舞妓さんに「かわいがってもらわんと、あかんのえ」と言います。これは、スキルは未熟でもチーム全体のサービスの一端を担うメンバーとして認められるための努力を、新人のあなたがしなければならないと教えているのです。
 溶け込もうという気持ちをもてば、簡単な挨拶をすることの意味もより深く理解できるようになります。毎日、毎回のお座敷で、自分の能力に応じた役割を担い責任をもって行動し、さらに周囲からアドバイスをたくさんもらえるようになることで、現場の経験をより深く生かす能力もアップしていくのです。
5. 舞妓さんの「間違いから学ぶ姿勢」を育てる言葉
・しょうむないことやさかいに、言わへんのはあかんのえ
 だらりの帯の扱いにも、箱枕で日本髪を崩さないように寝ることにも少し慣れたころ、「しょうむないことやさかいに、言わへんのはあかんのえ」と、置屋のお母さんが舞妓さんに話しかけています。その口調は、毎日のお座敷の1つひとつの行為の大切さをしっかり噛みしめているかのようです。「しょうむない=しょうもない」、「つまならいこと」を意味する京言葉です。「つまらない、本当にささいな失敗をしたときに、ささいなことだから、教えてもらわなくても次から失敗しないように気をつけられるからと判断して、私(置屋のお母さん)に報告していないのではないか。それでいいと思っているのではないか。でも、自分のしたことについては、まず言うことが大事なんだよ」と、日々の業務についてきちんと報告することの大切さを、お母さんは、改めて伝えようとしています。
けれど、新人舞妓さんの立場になると、自分の不始末を自覚して、お母さんの手を煩わせることなく、きちんと直そうと思って努力しているのですから、この言葉は腑に落ちないことがあるようです。舞妓さんのやる気をそぐようなことを、なぜ置屋のお母さんはわざわざ言うのでしょうか。実はとても短い言葉ですが、この中でお母さんは、ある失敗を「ささいなこと」と決めること、そしてその考えに基づき「報告しなくてもよい」と決めること、という2つの判断を舞妓さんが単独ですることをたしなめているのです。
 舞妓さんたちのお座敷は複数人のチームプレーによって成り立っています。たとえば、ある舞妓さんが座ったときに、後ろの人が通りやすいようにだらりの帯を巻くことをうっかり忘れていたとしましょう。彼女はその失敗に気がついて、次に座ったときにはきちんとしたとします。でも、だらりの帯を踏まないように芸妓さんが歩きにくそうにしていたら、そしてその様子をお客様が目に留めて眉をひそめていたとしたら……。ほんのささいなミスがチームプレーのスムーズな連携を乱し、お客様の失望を招くこともあるのです。接客業にはやり直しがききませんから、1人の小さなミスが全体に及ぼす影響を推し量り、メンバー全員で対処することが必要になります。
 自分のことで精一杯の新人舞妓さんが仕事の全体像をつかむことは困難です。仕事の全体像が見えていないのに、失敗を「ささいなこと」と片づけてしまっては、いつまでたっても仕事全体について理解できるようになりません。それではサービス全体の質を高めることができませんし、もっと大きなやりがいを舞妓さんが持てなくなってしまう。そんな思いもこの言葉にはこめられているのです。
・「間違うことは恥ずかしいことやない、そのままほっとくのが恥ずかしいことや」
 「うちかて、舞妓はんのときは、すんまへんと、日に何べん言うたのか数えられへんほどどした」と、すっきりした横顔に女らしさが漂う芸妓さんが、後輩の舞妓さんに話しています。芸妓さんが「毎日朝から晩まで、何十回も何百回も失敗を繰り返す自分のことが嫌になり、自分は舞妓さんにむいていないと悩んだこともあった」と言うと、うつむき加減の舞妓さんが、はっと顔をあげました。
 この芸妓さんは舞妓さん時代に、「間違うことは恥ずかしいことやない、そのままほっとくのが恥ずかしいことや」と、置屋のお母さんから教わったそうです。「ほっとく」というのは京言葉で「放置する」ということ。つまり「間違うことや失敗することが恥ずかしいことではなく、失敗したことを認め反省せず、そのままでいいと放置することこそが恥ずかしいことだ」と言われたのです。
 「すんまへん」と自分の失敗をその都度認めていると、いつまでたっても上達しない自分にイライラすると同時に、そんな自分を恥ずかしいと思ってしまいます。すると、失敗に気がつきながらも、それを繰り返す自分が情けなくて辛くて、失敗をなかったものとして見逃してしまう気持ちが浮かびます。また、失敗の原因を他人のせいにして自分を納得させてしまえば、それはそれで済んでしまいます。お姉さんやお母さんから指摘されたら、「すんまへん」としおらしく謝ってしまえば事足りる、という思いにもつながります。自分が傷つかないようにという思いから「失敗をスルーする」ことは、自分で自分を貶めてしまうだけでなく、これからの歩みに大きな落とし穴を掘ることにもなることを、この芸妓さんは置屋のお母さんから学び、それを新人の舞妓さんに伝えたのです。
「すんまへん」と新人の舞妓さんが言えるのは、自分がした間違いがわかるようになったからです。仕事を遂行する上で自分の力の足りないところが少しずつ理解できるようになり、新人の舞妓さんの能力がアップしている証拠なのです。周囲から指摘される前に失敗に気がつけば、当然謝る回数は増えます。辛い気持に流されずに、そこで同じ失敗を繰り返さないように気張れば、技能の向上に弾みがつきます。本人にとっては停滞しているように思える何百回の「すんまへん」は、新人舞妓さんの種が花街という土の中で根を張りだしたサインなのです。ここでぐっと踏ん張れば、そう遠くない将来、しっかりした双葉が地面から顔を出すはずです。それがわかっているから、お姉さんやお母さんは、舞妓さんの様子を見守りつつ、根腐れしないように言葉をかけているのです。
・言い訳して隠そうとしたら、もう1つ大きな嘘をつかんとあかんようになる
 舞妓さんは、先輩の芸舞妓さん、お茶屋置屋のお母さんに道で出会ったときは、立ち止まって挨拶をし、相手が通りすぎるまでその場で見送るのがルールです。それができないと、「挨拶もちゃんとできひん舞妓はんは、困りますなあ」と、彼女を育てている置屋のお母さんにお小言が届きます。
 先輩の芸妓さんに挨拶が遅れた舞妓さんが「お母さん、すんまへんどした。○○さん姉さんに気ぃつかんと、ご挨拶が遅なってしもうて。途中で一緒になった△△ちゃんが、お三味線のお稽古のこと聞いてきゃはったさかいに……」と、女紅場(芸舞妓さんが通う学校)に行く道すがら、一緒になった他の舞妓さんにも責任があるような説明をしました。
 その一言を聞いた途端、置屋のお母さんは厳しい口調になりました。「△△ちゃんと一緒に、姉さんにご挨拶をしたらええんやないの。自分の支度が遅なって、気が急いてたさかいに、お姉さんに気ぃがつかんと、当たり前ことができひんかったんやろぅ。都合の悪いことを言い訳して隠そうとしたら、その嘘を隠すために、またもう1つ大きな嘘をつかんとあかんようになるんえ」と、新人の舞妓さんをピシャリとたしなめました。
 お母さんは、舞妓さんが自分のミスを責任転嫁して説明したことを咎めているだけではありません。もし、自己正当化の言い訳がスッと通れば、それを周囲に信じてもらうために、その場しのぎの嘘を次々重ねてしまうこと、その危うさを教えています。お母さんは、舞妓さんの将来に影を落とすような芽に気が付き、小さいうちにすぐに摘み取ろうとしたのです。お座敷の現場で、自分の不手際を他の芸舞妓さんのせいにして、チームリーダーの芸妓さんに報告するような舞妓さんは、周囲から好かれるでしょうか。そんな舞妓さんが、チームの連携をスムーズにするための情報を、きちんとメンバーからもらえるでしょうか。チームプレーを乱すような周囲からの信頼感の乏しい新人さんは、居場所がなくなってしまいます。そして、信頼はすぐには回復しません。しかし、仕事の失敗の原因がスキルの未熟さなら、努力で周囲の信頼を得ることが可能です。今後の伸びしろを考慮され見守ってもらうための「時間」という資源を、周囲から預けられるようになることが大事なのです。
◆『舞妓の言葉――京都花街、人育ての極意』(東洋経済新報社・西尾久美子著)
この本「舞妓の言葉」を通して、人育ての極意を学ぶ。京都花街のごく限られた世界での話ではなく、ビジネスにも通じる人材育成論。舞妓さんの美しい写真とともに綴られる京ことば。周囲に育てられ精進していく舞妓さんの言葉はなるほどと思うところ多数。『「が=我」を張ることは、私一人の頑張りだが、「気」を張るなら、自分の気持ちのアンテナをしっかり伸ばし、周囲との関係性を配慮しつつ努力しようということになる。』心に残った一文。意外にも人材教育に役立つ本でした。「いつの時代も若者は、未経験で、未熟で、自信もない。350年続く伝統産業である「京都花街」が、現代の10代半ばの少女たちを舞妓さんというプロフェッショナルに育成できる秘密は、伝統文化や人材育成の仕組みとともに、自分の経験や周囲の関係性を大切にしながら自律的なキャリア形成をうながす、「言葉の力」にあるのではないか。(著者「メッセージ」より)
1.ビールの飲み方から何を読み解くか
京都の舞妓は、お客さんの何気ないしぐさからお客さんの気持ちを読み取ることができる。たとえば、こぶしの握りようからお客さんの緊張のレベルを察することができるというように。また、コップに注がれたビールの減り方を注意深く見るだけでもかなりのことがわかるそうだ。ほとんどビールを飲んでおられないということは、なんらかの事情でお酒が飲めないのか、ビールが好みに合わないのかのいずれかである。その場合には、ほかの人に聞こえないような小さな声でおぶ(お茶)でも持ってこさせましょうかとたずねるようにするそうだ。
2.OJTで求められる2つの要素とは
こうしたタネを知らないと、たずねてきた依頼人の服装やしぐさだけから、依頼人の職業や、解決を依頼したい問題を言い当てるシャーロック・ホームズのようだ。しかし、タネを明かしてもらえばだれにでもできそうだ。天才ホームズのレベルにはなかなか達しえないとしても、このような推論能力をもとに臨機応変な対応ができるようになる。そのためには、かなりのトレーニングや指導が必要である。
顧客の気持ちをそのしぐさから読み取るための知恵のなかには、マニュアルでも伝えることができそうなものがありそうだ。上であげた例は、マニュアルにできそうだ。しかし、京都の花街では、マニュアルで伝えるという方法はとられていない。先輩による現場での指導、置き屋での教育・訓練という方法がとられている。ディズニーランドやマクドナルドのマニュアルによる知識伝承の方法とは明らかに異なっている。マニュアルによる教育と現場での指導による訓練のどちらが優れているかを一概に言うことは難しい。それぞれには長短がある。また、それぞれの短所を補う方法も工夫されている。それぞれの仕事にはどちらの育成方法が向いているかを考えて伝承の方法が選ばれるべきである。マニュアルという方法では、日本型のきめ細かく臨機応変なサービスの質を維持することが難しいのだろう。また、マニュアルでは、マニュアルを書いた人を超える知恵を得るのは難しい。
京都の花街では、マニュアルではなく、職場での指導・教育という方法が採用されている。まさにオン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)である。この形での知恵の伝承には、次の2つのものがとりわけ重要である。
 1つは、仕事場での明確な先輩・後輩序列をもとにした、先輩によるきめ細かい指導である。仕事が終わってから、今日の座敷での立ち居振る舞いのなかでどこがよかったか、なぜよかったか、どこがよくなかったか、なぜよくないのかについての、先輩からの説明は有益である。先輩が示すよい手本から学べることは多いが、先輩がなぜそうしたかの説明をしてやれば、学びの質をさらに高めることができる。現場での訓練では失敗は避けられない。顧客の気持ちが十分に読めないと見当違いの対応をしてしまうこともある。そうした失敗が起こったときには、先輩による臨機応変な取り繕いが必要になる。このように職場での学びは、職場の人間関係のなかで行われるのである。現場で先輩たちに好かれるようにすることも大切である。
 もう1つは、学ぶ側の心構え、姿勢である。学ぶ側に、先輩から虚心に学ぼうとする心構えや、先輩を尊敬する態度がなければいくらよい指導をしても、指導の効果は発揮されない。そもそも、先輩の側に指導してやろうという気持ちが湧かない。先輩をうまく動かせるのは、後輩の姿勢や心構えである。学ぶ側の姿勢や心構えを形成するうえで重要な役割を演じているのは、職場で伝承されている「言葉」だと西尾さんは言い、京都の花街には意味深長な「言葉」が伝えられていると西尾さんは書いている。
最近の若い人々は、マニュアルがないと育てられないと思い込んでいる先輩が多い。そうなるのは、若い人々に日本的育成法が通じないからではなく、学ぼうとする姿勢がうまく涵養されていないためである。祇園の舞妓さんの育成は、中学卒業後の15歳から始められることが多い。それから2年もたたないうちに、お父さんの年代をはるかに超え、おじいさんの年代に近い人々の宴会でも臨機応変な対応ができるようになる。普通に進学していたら高校生の年代だ。これほど若い世代の人々でも、日本式で育て、日本式の臨機応変なサービスができるようになるのだ。先輩から学ぼうとする姿勢が涵養されているからだ。それは花街で伝えられている言葉を通じて伝承されるそうだ。
「○○さん姉さん、おおきに。」「すんまへん。」「おたのもうします。」政府主催の国際会議のレセプションなどでも優美な舞を披露する京都の舞妓たちは、15歳から17歳程度で全国各地からこの世界に飛び込み、約1年間の修業を経て1人前としてお座敶に出ていきます。しかし、この世界で生きていくためには、「京ことば」をマスターし、長唄や三味線、茶道や華道等をたしなみ、顧客の嗜好や要望を見極め、満足度の高いサービスを提供する「おもてなしのプロ」として育つことが必要となります。中学出立ての少女たちは、どのようにしてノウハウを身につけるのでしょうか。
 舞妓たちのキャリア形成などを研究する経営学者の西尾久美子氏によれば、彼女たちは、高度技能専門職として、どのようなメンバーでお座敶に上がっても、一定レベル以上の高付加価値サービスを提供することが求められます。このため、舞妓は、先輩芸舞妓、お茶屋などたくさんの人々からフォローしてもらい、技能を磨くのに役立つ言葉がけを多数受けます。舞妓は、これらの言葉を母親代わりである置屋の責任者に必ず報告し、またアドバイスをもらいます。こうした舞妓が仕事を進めるために、最初に覚えなければならないのが冒頭の3つの言葉だそうです。この言葉は、舞妓に、「この世界で生きるためには、先輩のアドバイスを真剣に聞くことが大事なのだ。」ということを意識させ、常に謙虚さを持たせる意味があります。また、一方で、舞妓の質を維持し、この世界のビジネスや文化を将来に引き継いでいくため、あらゆる芸舞妓たちが積極的に若手育成に関わっていくという育てる側の決意を示すものでもあります。舞妓を一人前にするために、早くからお座敶に出すなどし、若さゆえに失敗すれば、お茶屋さん、先輩芸舞妓が全員で対応し、大きな問題になる前に解決していくのです。今、10代の若者は、自らの将来の姿を見つけ出すことが難しい時代になっている。いや、かつてもそうだったのかもしれないが、経済が成長しているときは、なんとか就職口を探すことはできたが、今は厳しい状況にある。そうした経済環境の中で、コンビニやチェーン居酒屋がアルバイトの吸収先になっている。しかし、その中から本当のサービスとは何かを知り、自らを高めるプロフェッショナルを目指すことは難しい。
 舞妓・芸妓の世界は特殊だが、その世界には長い年月を通じて築き上げられた人材育成の仕組みがある。著者は、この世界で受け継がれている言葉の数々から、プロフェッショナル養成のシステムを探っている。次のような京言葉が紹介されている。
(1)「電信棒見ても、おたのもうします」
 はっきりお顔を知らない方でも、この街の関係者と思う人にお目にかかることがあったら、頭をきちんと下げて挨拶しなさい。技術のレベルが未熟で他の判断基準がない時期だからこそ挨拶は重要である。愛想が良い子と思ってもらうのは、単に気に入られるためでなく、自分の将来を作っていくためである。
(2)「教(お)せてもらう用意」
 教えることは、教えられるほうに、それを受け取る感受性があってはじめて成り立つ。一つひとつは小さなことだが、自分勝手なことをしたら厳しく叱られ、相手を気遣うことができれば、少しずつ「教(お)せてもらう用意」は培われていく。まず、仕事経験を通じて先輩や上司やお客様からいろいろなことを「教えてもらえる」能力、つまり、OJTを受け取ることができる能力、「教(お)せてもらう用意」を伸ばすことで大事である。
(3)「頭で考える前に、おいど動かさんと」
 頭で考える前に、お尻を上げて行動に移さないといけない。どうしたらよいかと自分の頭で考える10分より、周囲の人に聞いて3分で動いた方が早い。
(4)「座ってるのも、お稽古」
 自分が直接教えてもらうことだけが学びではなく、他の人の学習機会に同席できるときもアンテナを伸ばし、自分の得た経験すべてを活用することが大切だ。稽古場に限らず、お座敷の現場で、接客をしつつ、他の芸舞妓さんの様子を見せてもらって、自分の技能を磨きなさい。
(5)「そのままほっとくのが恥ずかしいことや」
 間違うことが恥ずかしいことない、そのままほっとくことが恥ずかしいことや。「うちかて、舞妓はんのときは、すんまへんと、日に何べん言うたのか数えられへんほどどした」と、すっきりした横顔に女らしさが漂う芸妓さんが、後輩の舞妓さんに話しています。
 芸妓さんが「毎日朝から晩まで、何十回も何百回も失敗を繰り返す自分のことが嫌になり、自分は舞妓さんにむいていないと悩んだこともあった」と言うと、うつむき加減の舞妓さんが、はっと顔をあげました。
 この芸妓さんは舞妓さん時代に、「間違うことは恥ずかしいことやない、そのままほっとくのが恥ずかしいことや」と、置屋のお母さんから教わったそうです。「ほっとく」というのは京言葉で「放置する」ということ。つまり「間違うことや失敗することが恥ずかしいことではなく、失敗したことを認め反省せず、そのままでいいと放置することこそが恥ずかしいことだ」と言われたのです。
 「すんまへん」と自分の失敗をその都度認めていると、いつまでたっても上達しない自分にイライラすると同時に、そんな自分を恥ずかしいと思ってしまいます。すると、失敗に気がつきながらも、それを繰り返す自分が情けなくて辛くて、失敗をなかったものとして見逃してしまう気持ちが浮かびます。また、失敗の原因を他人のせいにして自分を納得させてしまえば、それはそれで済んでしまいます。お姉さんやお母さんから指摘されたら、「すんまへん」としおらしく謝ってしまえば事足りる、という思いにもつながります。
 自分が傷つかないようにという思いから「失敗をスルーする」ことは、自分で自分を貶めてしまうだけでなく、これからの歩みに大きな落とし穴を掘ることにもなることを、この芸妓さんは置屋のお母さんから学び、それを新人の舞妓さんに伝えたのです。
「すんまへん」と新人の舞妓さんが言えるのは、自分がした間違いがわかるようになったからです。仕事を遂行する上で自分の力の足りないところが少しずつ理解できるようになり、新人の舞妓さんの能力がアップしている証拠なのです。
 周囲から指摘される前に失敗に気がつけば、当然謝る回数は増えます。辛い気持に流されずに、そこで同じ失敗を繰り返さないように気張れば、技能の向上に弾みがつきます。本人にとっては停滞しているように思える何百回の「すんまへん」は、新人舞妓さんの種が花街という土の中で根を張りだしたサインなのです。
 ここでぐっと踏ん張れば、そう遠くない将来、しっかりした双葉が地面から顔を出すはずです。それがわかっているから、お姉さんやお母さんは、舞妓さんの様子を見守りつつ、根腐れしないように言葉をかけているのです。
(6)「だれの手もかりてしまへん、みたいに思うたらあかんのえ」
 初心忘れるべからず。
(7)「一歩上がると、見えへんことがわかるようなるんどす。
 チームの中でせなあかんことを、ちゃんとわかるように後輩に説明せんとあかんのどす」
(8)「一生、一人前になれへんのどす」
 ずっと一人前になれないと自覚するからこそ、厳しい言葉や視線を投げかける先輩たちの叱咤激励を活かして、自らの技能を磨く道を歩み続ける。
(9)「だれの手も借りてしまへん、みたいに思うたらあかんのえ」
 慢心を諌めるために、天狗になってきた舞妓さんに対して置屋のお母さんが言う言葉だそうです。芸の世界は厳しいのです。中学を卒業した女の子が「舞妓さんになりたい」と京都へやってきて、まずお世話になるのは「置屋のお母さん」。お座敷で助け舟を出してくれるのは「茶屋のお母さん」。現場の失敗をフォローしてくれたり、アドバイスをしてくれるのは先輩の舞妓さんや芸舞妓さんたち。たくさんの人達のおかげであるということを忘れないよう、ということです。鼻高々になっているとき、こうやって注意してくれる人がいるのは幸せですね。そういう人がいなければ、周りの人達から相手にされなくなってようやく気づくということになります。年齢があがってくると注意してくれる人はほとんどいなくなるので自分でよっぽど気をつけなくてはいけませんね。
 こうした言葉の数々からプロフェッショナルが生まれていく。さまざまな分野でこの教育の伝統を再認識していかないと、この国は立ちいかなくなる。文この本からそう伝わってくる。まさに文化や精神のデフレ化は何とか食い止めないといけない。



(7月19日生まれの偉人)
◆水野 忠邦(みずの ただくに、寛政6年6月23日(1794年7月19日)〜嘉永4年2月10日(1851年3月12日))は、江戸時代後期の大名・老中。肥前唐津藩主、のち遠州浜松藩主。
 忠邦は異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かす一方、年貢米収入が激減し、一方で大御所政治のなか、放漫な財政に打つ手を見出せない幕府に強い危機感を抱いていたとされる。しかし、家斉在世中は水野忠篤、林忠英、美濃部茂育(3人を総称して天保の三侫人という)をはじめ家斉側近が権力を握っており、忠邦は改革を開始できなかった。
 天保8年(1837年)4月に家慶が第12代将軍に就任し、ついで1841年(天保12年)閏1月に大御所・家斉の薨去を経て、家斉旧側近を罷免し、遠山景元矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵渋川敬直後藤三右衛門を登用して天保の改革に着手した。天保の改革では「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」との覚書を申し渡し「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めた。農村から多数農民が逃散して江戸に流入している状況に鑑み、農村復興のため人返し令を発し、弛緩した大御所時代の風を矯正すべく奢侈禁止・風俗粛正を命じ、また、物価騰貴は株仲間に原因ありとして株仲間の解散を命じる低物価政策を実施したが、その一方で低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとったため、物価引下げとは相反する結果をもたらした。腹心の遠山は庶民を苦しめる政策に反対し、これを緩和した事により庶民の人気を得、後に『遠山の金さん』として語り継がれた。また、天保14年(1843年)9月に上知令を断行しようとして大名・旗本の反対に遭うなどした上、腹心の鳥居が上知令反対派の老中・土井利位に寝返って機密文書を渡すなどしたため、閏9月13日に老中を罷免されて失脚した。

<昨年の今日>は空白である。