脱少子化のために。そして、『世界が絶賛!職人が生んだ驚きの新商品』

「脱少子化」の方策を考えていこう。2050年には人口も1億を割り、日本も貧困国になりかねない。それを防ぐためには、少子化から脱却さざる得ない。そのために、総合的な方策を取らざるえない。

◆『世界が絶賛!職人が生んだ驚きの新商品』(2013年10月8日放送 22:00 - 22:54 テレビ東京ガイアの夜明け」より
 寿司幸本店は明治創業の老舗寿司店で、店ではワインやシャンパンを出している。さらにワインなどを出す際には木製のシャンパンクーラーを使用し、アルミのものと違って結露がないので使い勝手が良いという。木製の桶商品の売上が激減するなか、桶職人の中川周士さんは樹齢百年を超える木材を使ったシャンパンクーラーを作っている。中川さんが作った「Konoha」はフランス・シャンパーニュ地方のホテル「レクレイエール」で使われている。さらにドン・ペリニヨン醸造者のリシャール・ジェフロワさんが中川さんの商品に惚れ込み、ドン・ペリニヨン公認クーラーとして世界で300個を販売した。福井のナイフが世界を席巻、三ツ星レストランを攻略へ。さらに、ドン・ペリニヨンが絶賛した木製のシャンパンクーラー、九谷焼のワイングラス、陶磁器メーカーのノリタケの皿など日本伝統工芸が活かされた商品が多数ある。今年1月にフランス・リヨンでは世界最高峰の料理コンクール「ボキューズ・ドール」が開かれ、浜田統之さんが日本代表として出場。浜田さんは日本人初の3位入賞を果たし、試食用には審査員が絶賛したほどのメイドインジャパンのナイフを紹介した。一般的なナイフよりも切れ味鋭く、ネットで販売したところ600本が完売した。福井・越前市にある龍泉刃物は刃物制作会社で、増谷浩さんは85歳になった今も職人として働いている。そして息子の増谷浩司さんは父親から技術を叩きこまれた。だが増谷さんは高品質な包丁を作っても売上が少ない現状に苦悩していて、越前市では刃物工場は激減している。ホテル総料理長浜田統之さんは龍泉刃物の包丁を愛用していて、世界的な料理コンクールに出場するにあたって試食用ナイフの製作を依頼した。増谷さんは安全且つ切れ味が良いナイフの製作を目指し、打刃物の伝導技術を取り入れた。徹底的に金属を叩くことで強度が高まり、肉の繊維を傷つけないほど切れ味も鋭くなるという。龍泉刃物の増谷浩司さんは日本の伝導技術を取り入れたナイフをフランスに売り込もうと考え、9月にパリに上陸。増谷さんらはフランスで若いながらも最高のシェフと評されているパスカル・バルボさんにナイフを紹介した。龍泉刃物の増谷浩司さんはパリにあるホテル アストランスのオーナーシェフパスカル・バルボに日本の伝統技術を取り入れたナイフを売り込んだ。バルボ氏はナイフを高く評価するも、店ではナイフを買い換えたばかりだった。増谷さんはホテル フーケッツ バリエールに売り込むも、1本2万円というナイフにホテル側は難色を示した。その後、食事に訪れたレストランのシェフにナイフを紹介し、シェフは切れ味の良さに驚いていた。フォーシーズンズ ホテル ジョルジュ サンク パリを訪れた増谷浩司さんはシェフのエリック・ブリファールさんにナイフを売り込んだところ、ブリファールさんはナイフの切れ味を絶賛した。ホテルのレストランはリニューアルを控えていて、前向きに検討してもらえることになった。さらに増谷さんはシャングリ・ラ ホテル パリでも売り込みを行ない、シェフは1本2万円の値段にも納得してもらえた。
 東京、西新宿にある日本のモノづくりの総合ショールーム「monova」をけんがく。天池合繊の浅井さんから、驚きの薄さと軽さの布について説明を受けたが、この布は髪の毛よりも細い糸を使い編んだ生地だった。フランス・パリにあるオペラ座。舞台衣装は全て専属スタッフにより作られるオリジナルの品だが、SIDDHARTAというバレエ作品の衣装には驚くほど薄い日本の繊維メーカーの生地が使われていた。その繊維を開発したのが、石川県七尾市にある「天池合繊」という繊維メーカー。「天女の羽衣」という名前のこの生地は、世界で最も薄くて軽いとされ独特の光沢と美しい透明感がある。七尾市周辺の合繊工場は最盛期には約1200社あったが、現在は海外製品などにおされ約100社にまで減少。しかしこの厳しい環境を何とかしようという思いから、この画期的な生地が誕生したのだった。天女の羽衣は多くの高級ファッションブランドが生地として採用するなど、国際的にも高い評価を受けている。4年前からは三越銀座店(東京・中央区)で「天女の羽衣」をつかった自社ブランドのスカーフを販売。さらに天池合繊では欧州にも売り込みたいと考え天池社長はミラノのマルペンサ国際空港へと飛んだ。天女の羽衣という世界一軽くて薄い生地を開発した天池合繊を取材。天池社長はミラノを訪れてきじの売込みを行なう事に。とらうブランドの生地担当者に初めて「天女の羽衣」を見てもらうこととなったが、高評価を受けて早々に商談が成立した。しかし今回の目的は天女の羽衣を使った自社ブランドのスカーフの売り込み。デパートに次々と連絡をとるも、デパートではまだ知名度がなくアポイントをとることすら難しい状況。
続いてパリを訪れた天池社長。ようやくパリの人気観光スポットにある「メルシー」というお店とアポイントがとれて交渉を行なう事に。生地ではなく製品の売り込みは初めてということで、まずは素材を見てもらった後で、スカーフの売り込み。ただ店の都会的で機能的なイメージと、繊細な商品をマッチさせるのが困難との理由で、商談は成立しなかった。フランス・パリで「天女の羽衣」という生地を使ったスカーフの売込みをしている天池合繊の天池社長に密着。欧州に来てからスカーフの商談が成立していないという事で、大型店ではなくエレガントな商品を扱う高級ブティックに的を絞る事に。「n15(エヌ キャンズ)」という店を訪れて商談を行なったが、来年の春夏シーズンに取り扱ってもらうことに。さらにオリジナルスカーフの製作依頼も受けることにもなった。
 **今回の番組から、改めて日本のものづくりのすごさを痛感した。日本が誇る職人達の匠の技術を活用し、これまでにない商品を開発する動きが始まっている。しかし、まだ地方には活用されていない伝統技術が眠っており、それらをどう掘り起こし活用していくかが今後ますます求められていくのではないか。官民挙げて取り組んでいくべき大きな市場であろう。


<今日の出来事>
ノーベル物理学賞ヒッグス粒子研究者 今年のノーベル物理学賞ヒッグス粒子の存在を半世紀近くも前に予言したピーター・ヒッグスさんと、フランソワ・ アングレールさんの2人が選ばれた。ヒッグス粒子は去年7月以降、国際的な研究グループによって確認された。
楽天マー君24勝。史上初のシーズン20勝以上無敗最多勝を達成。


(10月8日生まれの偉人)
◆原 富太郎(はら とみたろう、慶応4年8月23日(1868年10月8日) - 昭和14年(1939年)8月16日)は、実業家、茶人。号は三溪。美濃国厚見郡佐波村(現・岐阜県岐阜市)出身。
 東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務める。1892年、横浜の豪商・原善三郎の孫・原 屋寿(はら やす)と結婚し、原家に入る。横浜市を本拠地とし、絹の貿易により富を築いた。また富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていた。
1915年に帝国蚕糸の社長、1920年に横浜興信銀行(現在の横浜銀行)の頭取となる。1923年の関東大震災後には、横浜市復興会の会長を務めた。しかし関東大震災後の復興支援のため私財を投じ衰微。美術品の収集家として知られ、小林古径前田青邨http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130127)らを援助した。横浜本牧三溪園を作り、全国の古建築の建物を移築した。三溪園は戦前より一部公開されていたが、戦後原家より横浜市に譲られ、現在は財団法人三溪園保勝会により保存され、一般公開されている。
 三渓の実業家としての経歴を眺めてみると、本業の生糸関係はもちろんだが、金融をはじめとして多くの仕事を引き受けたことがわかる。第二銀行取締役頭取、三井銀行取締役、横浜興信銀行初代頭取、横浜市信用組合長、スマトラ島でのゴム園経営、日本郵船取締役、満鉄監事、、、。私より公を大切にし、横浜の利益になるなら私を無にした。横浜の復興に尽力するなどまさに横浜の恩人だった。三渓園の記念館では、実業家、奉仕家、美の養成家、美術家・数寄者、という面から資料を展示してある。「奉仕家」では、「三渓園の美しい自然の風景は私有すべきはない」と市民に開放している。市民にはもちろん喜ばれたが、社会主義者堺利彦もこの英断を絶賛している。東京専門学校で学んだ三渓は母校の早稲田大学基金管理委員、理工学部新設時に資金を提供、横浜経済協会を設立し横浜駅の移転を推進、鶴見沖埋め立て。神奈川県匡済会での社会福祉事業、横浜貿易復興会理事長、横浜市復興会会長、内閣復興院評議員など数えきれないほどの役職をこなしている。
「美の養成家」では、岡倉天心の依頼によって、日本美術の再興のために、横山大観、下村観山、小林古径、前田青沌、そして彫刻の平櫛田中http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130223)などを援助している。前田青沌は「青年画家を育成された功績は永久に忘れることがでjきない」とその恩を語っている。
「美術家・数寄者」では、天心の影響を受けて、美術品のコレクター、パトロン、美術家、作庭・建築・茶の湯などを愛好した数寄者であった。自らも絵筆を握る三渓は「美術の世界は他に求めることができない自由の別天地だ」と述べ、4000点の美術品を蒐集した。こういった面では、芥川龍之介谷川徹三夏目漱石井上馨益田鈍翁、佐々木信綱、高浜虚子などとの交遊もあった。

◆池田 菊苗(いけだ きくなえ、1864年10月8日(元治元年9月8日) - 1936年5月3日)は、戦前日本の化学者。
1899年より、物理化学研究のためにドイツ・ライプツィヒ大学オストワルド研究室に1年半留学する。1901年5月から10月までロンドンに滞在。夏目漱石http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130209)と同じ下宿に住み、以降親交を持つ。帰国後、東京帝国大学教授に昇進。1907年、酸甘塩苦の4基本味以外の味成分を「うま味」と名づけ、単離研究に着手。昆布の旨み成分がグルタミン酸ナトリウムであることを発見し、翌1908年にグルタミン酸ナトリウムを主成分とする調味料の製造方法を発明し特許を取得。1909年5月、うまみ調味料「味の素」が鈴木製薬所(現味の素株式会社)から発売された。本人はグルタミン酸を、「具留多味酸」と表記した。

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121008