台風26号、東京・神奈川・千葉など暴風域に。さらに、大きな被害をおこす。

(今朝のニュースから)
◆大型で強い台風26号は、暴風域を伴い、16日朝にかけ、関東地方にかなり接近する見込み。東京都、埼玉県、茨城県静岡県、神奈川県、千葉県と伊豆諸島が暴風域に入った。同日午後には三陸沖で温帯低気圧に変わる見込み。気象庁によると、西日本から北日本の広い範囲で暴風や高波、大雨が予想され、同庁は厳重な警戒を呼びかけている。同庁によると、台風26号は16日午前4時現在、風速25メートル以上の暴風域を伴い、八丈島の西北西約30キロの海上を時速約60キロで北東へ進んでいる。中心の気圧は955ヘクト・パスカル、中心付近の最大風速は35メートルとなっている。台風の接近に伴い、西日本から北日本の広い範囲で非常に強い風が吹き、大しけとなる見込み。特に東日本や北日本の太平洋側では、30メートル以上の猛烈な風が吹き、9メートル以上の猛烈なしけとなる恐れがある。17日午前0時までの24時間に予想される降水量は、いずれも多いところで、東北と東海、関東甲信、北陸の各地方で300ミリ、近畿と中国地方で200ミリ、北海道地方で180ミリに達する見込み。(読売新聞 10月16日(水)4時17分配信・最終更新:10月16日(水)5時0分)
 16人死亡 43人安否不明 伊豆大島 捜索活動続く。台風26号の被害があった伊豆大島では、捜索活動が続けられている。蓮見孝之が現場から中継、現在女性の救助活動が続けられていることを報告した。また、川島理史大島町長は会見で避難勧告を出さなかったことについて、夜中の避難勧告は更に被害者を増やしかねないと話した。(2013年10月16日放送 20:55 - 20:56 TBSフラッシュニュース)

◆書くことを苦手にする人も少なくない。私もそうかも知れない。しかし、書くこと内容はどうあれ、好きである。書くことで、大切なのは、「テーマ」である。テーマが決まり、そこで何を伝えたいかが決まれば、資料が集まれば、大きな山場は越えたも同然かも、それをいかに文章化させるかであろう。私の場合、話すように書くことにしている。話すときにはそれほど文脈や文法を意識して話していない、つまり、頭の中に浮かんだことを、そのまま口から言葉にしているのではないか。書くのもそれと同じで、頭の中に浮かんだことを、そのまま指先から文章にしている。普通に人と話せる人は必ず書けると思っており、「起承転結」は一切考えず、何度でも推敲し、相手にとって「価値」のあることを書く、そしてそれを相手に伝わりやすくするために、たとえば、表現を柔らかくするとか、文章の順序を変えるなどして、あるいは、表現を少し工夫して「インパクト」を出すものであると考えている。私はついつい長くなりがち、そこを短い文章に工夫している。短い文章でもプロの方のエッセイをできるだけたくさん読むようにすれば、文章表現の参考になるものである。いつも、ブログを書く際には、こんな点にも工夫しているつもりである。でも、読んだ方からみると、どうかな?

◆第1期 「みねるばの森ゼミナール」 を開講します!(http://www.terasemi.jp/tsm_detail/id=139
 主催:NPO法人みねるばの森
 目的:私たちが生きる時代を見据え、世界の進路を考える。企業や産業の未来を想像する。こうした「時代認識」の上に立ち、自分の人生を組み立てる。
 カリキュラム・講師
  第1回 自分を知る  【11月8日(金) 18:30〜20:20】
 ・社会における自分の立ち位置を認識する
 実際に就職すると、何が求められるのか。
 学生と企業の間の意識のギャップを認識し、社会人として求められる基礎力を確認。
 終わらない自分探しではなく、自己実現のための第一歩を踏み出します。
  講師  西村 武士 氏
       (実践型就活&キャリアデザインゼミナール「ReaL」代表)
  演題  「社会で大活躍するには」             ほか

(10月16日生まれの偉人)
◆田中 久重(たなか ひさしげ、寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年1881年)1月11日)は江戸時代から明治にかけて「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれ活躍した日本の発明家である。筑後国久留米(現在の福岡県久留米市)生まれ。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。
◆伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、明治時代の政治家、初代の内閣総理大臣。(ひろぶみ、「ハクブン」と有職読みすることもある)。吉田松陰http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130920)から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。
 周防国熊毛郡束荷村(山口県熊毛郡大和町)の農民十蔵,琴子の子に生まれ,父が長州藩の蔵元付仲間伊藤家の養子となり,下級の武士身分を得た。松下村塾吉田松陰に学び尊王攘夷運動に参加。文久3(1863)年井上聞多(馨)らとひそかにイギリスに留学。翌年帰国して長州藩と連合国側の講和に尽力。明治政府で兵庫県知事,大蔵少輔,租税頭,工部大輔などを歴任。明治4(1871)年から6年には岩倉遣外使節団副使として欧米諸国を視察。帰国後大久保利通らと共に内治優先を説き,西郷隆盛の朝鮮派遣(征韓論)に反対,6年10月西郷らが政府を退いたのち,参議兼工部卿となり,大久保の片腕として国政の中枢に加わった。11年大久保暗殺ののち参議兼内務卿に転じ,明治政府の開明派として改革を進めた。しかし,漸進的な国会開設論を唱え,大隈重信の早期国会開設とイギリス型政党政治実現の意見に反対し,明治14年政変の原因をつくった。 15,16年,ドイツ,オーストリア,イギリスなどで憲法調査に従事。帰国後宮内卿を兼任し,保守派の抵抗を排して宮中改革を推進。18年,近代的内閣制度樹立を進め,初代内閣総理大臣に就任(第1次伊藤内閣)。19年憲法草案起草に着手,21年枢密院議長となって草案審議に当たり,22年2月11日大日本帝国憲法発布。憲法はドイツ流の君権主義の原理を取り入れていたが,伊藤は立憲政治の意義が君権の制限と民権の保護にあることを強調して立憲主義憲法理解を示した。23年貴族院議長(第1議会のみ)。25年第2次内閣を組織すると衆議院の第一党の自由党に接近。日清戦争(1894〜95)には首相として大本営に列席,陸奥宗光外相と共に全権として講和条約に調印。戦後は自由党と提携し,連立内閣を組織。31年第3次内閣を組織したが,地租増徴に失敗。元老たちの反対を押し切って大隈,板垣を後継に推し,日本最初の政党内閣(第1次大隈憲政党内閣)を実現させた。33年自ら立憲政友会総裁となって第4次内閣を組織し,明治立憲制のもとで政党政治への道を開いた。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争に対処したことが特記できる。元老。アジア最初の立憲体制の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされている。しかしこのころから山県有朋系官僚派と対立し,36年総裁を辞任。37年枢密院議長として対露開戦決定に参画。戦後,第2次日韓協約締結に当たり韓国統監に就任した。以後韓国の国内改革と保護国化を推進し,ハーグ密使事件(1907)を利用して韓国皇帝を譲位させ,第3次日韓協約を結んで内政を掌握した。日本政府のなかでは対韓慎重派であったが,韓国民族運動の矢おもてに立たされ統監辞任後、ハルビン駅頭で朝鮮独立運動家の安重根に狙撃され死去した。伊藤は豊かな国際感覚を身につけた穏健な開明派政治家で,日本の近代化,とりわけ憲法制定とその運用を通じて、立憲政治を定着させた功績は大きい。陽気な開放的性格で人気は高かったが,強固な派閥をつくらず,晩年の国内政治面での影響力は,巨大な派閥網を
持った山県有朋に一歩を譲った。
 <参考文献>春畝公追頌会『伊藤博文伝』全3巻,『伊藤博文関係文書』全9巻,鳥海靖『明治をつくった男たち』,坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』,佐々木隆藩閥政府と立憲政治』。1909年、ハルビン安重根によって暗殺された。

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121016

<本の紹介>
近衛文麿 (岩波新書)http://d.hatena.ne.jp/asin/4004131332
          http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004131332/hatena-ud-22/ref=nosim

おとなり日記
2013-10-16 Alternative Issue http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20131016