ゴン狐のふるさと「新見南吉記念館」

<7月30日生まれの先人の言葉>
中村天風(思想家)
 ・まずは人間を創れ、魂を磨け、さすれば幸福は向こうからやってくる。
◆新美 南吉(児童文学作家)
 ・おかあさんは、にんげんはおそろしいものだっておっしゃったが、ちっともおそろしくないや。だって、ぼくの手を見ても、どうもしなかったもの。
 ●新美南吉記念館 http://www.nankichi.gr.jp/
  半田市にある「新美南吉記念館」を訪れた。展示室は、南吉の学生時代から代用教員時代、杉治商会時代と年代別に自筆、原稿や日記、手紙、図書などの資料を展示して、彼の生涯とその文学世界を紹介している。また、「ごん狐」などの代表作のジオラマがあり、具体的に彼の創作した世界に浸ることが出来る。ビデオシアターでは「手ぶくろを買いに」の話が上映されていたので、じっくり拝見した。 母さん狐が子狐が寒かろうと、町に手袋を買いに行かせる話で、人間の手に変えた方の手だけを出して買いなさいと言われていたのに誤って本当の手を出した。でも人間はちゃんと手袋を渡してくれた。人間は怖いものだと母さんから聞かされていたのに、そんなことはなかったと子狐は言うが、母さん狐は「本当にそうだろうか」という話である。人間の立場と狐の立場のどちらでこの話を聞くかで印象が変わるが、いずれにしても短い中にも含蓄のある話である。
 まずは、新美南吉の短い生涯をみると、
・1913年 7月30日 畳屋を営む父 渡辺多蔵、母 りゑの次男として愛知県知多郡半田町(現在の半田市)岩滑(やなべ)で生まれる。
・1917年 母 りゑ逝去(享年29)。
・1919年 父 多蔵再婚。義母の名は「志ん」。2月15日弟益吉誕生。
1920年 半田第二尋常小学校入学。おとなしく、体は少し弱かったが成績は良かった。
1921年 父多蔵離婚。同年に同じ相手と再婚。 母方の祖母 新美志もの養子となり、新美正八と改姓。12月には新美姓のまま実家渡辺家に戻る。
・1926年 旧制愛知県立半田中学校(現・愛知県立半田高等学校)へ入学。
・1928年 この頃から童謡や詩の投稿を始める。文芸誌「赤い鳥」や「日本童話集」にであう.
・1931年 岡崎師範学校受験も体格検査で不合格。半田第二小学校の代用教員となるが 8月退職。5月『赤い鳥』に初めて童謡が掲載される。
・1932年 『赤い鳥』1月号に童話「ごん狐」掲載。 東京外国語学校(現・東京外国語大 学)英語部文科文学に入学。
・1934年 2月25日 喀血。この頃顔色も優れず、頻繁に盗汗(ねあせ)。
・1936年 東京外国語学校を卒業。神田の貿易商会に勤めたが、二度目の喀血で帰郷。
・1937年 知多郡河和小学校の代用教員となる。夏に体調をくずし、7月31日退職。杉治商会(家畜の飼料製造販売)鴉根山畜禽研究所に入社。
・1938年 安城高等女学校(現・安城高校)の教員となる。英語、国語、農業担当。
・1941年 初の単行本『良寛物語 手毬と鉢の子』(学習社)刊行
・1942年 10月 初の童話集『おぢいさんのランプ』刊行
・1943年 1月 病状悪化(喉頭結核)。2月には安城高等女学校を退職。 3月22日 逝去。享年29。 9月10日
 新美南吉のことを語る時,巽聖歌(たつみせいか)との関係は避けて通れないだろう。巽聖歌は岩手県出身の詩人で、童謡「たきび」の作者として知られており,北原白秋の下では南吉の先輩にあたり、南吉を弟のように可愛がったという。南吉が半田に戻った後も、いつも南吉のことを気にかけ、作品を発表する場を与えてくれたようだ。南吉の初めての童話集『おぢいさんのランプ』の出版も巽聖歌の助けによるものである。南吉が亡くなった後は残された原稿を集め、童話集を出したり、全集を作るなどして、南吉文学を日本中の人々に紹介したのである。このようにして,新美南吉はその死後になって更に評価が高まったのである。新美南吉の童話「ごんぎつね」がよく知られているが、その他にもたくさんの童話や童謡、小説、戯曲、俳句、短歌などを書き残している。主な代表作は「おぢいさんのランプ」「手袋を買いに」「牛をつないだ椿の木」「花のき村と盗人たち」などである。彼の作品は、庶民の暮らしや身近な動物たちを描きながら、心の通い合いや本当の善意、良心、信頼といったテーマをストーリー性豊かに表現している。その物語は、美しく確かな文章、巧みな心理描写、ユーモアに彩られ、彼の死から半世紀以上経った現在でも、ますます多くの読者に愛されているようだ。 若くして亡くなった童話作家という点で,宮沢賢治と比較されることも多いようだが,賢治が独特の宗教観・宇宙観で人を客体化して時にシニカルな筆致で語るのに対し、南吉はあくまでも人から視た主観的・情緒的な視線で自分の周囲の生活の中から拾い上げた素朴なエピソードを脚色したり膨らませた味わい深い作風であるとされている。
立原道造(詩人・建築家)
 ・夢みたものはひとつの幸福、ねがったものはひとつの愛。
日垣隆(ジャーナリスト)
 ・「何かを残していきたい」あるいは、「これだけはやっておきたい」というものを、やるかやらないか。人の価値は、そこにあるのではないでしょうか。