平和を考える。

◆1945年3月10日深夜0時8分、東京でアメリカ軍B29爆撃機344機による焼夷弾爆撃があった。死者約10万人、焼失家屋約27万戸という、第二次大戦で最大級の被害を受けた。敗戦の始まりであった。それは東京大空襲の日である。今、集団的自衛権等が議論されているが、戦争に巻き込まれる不安を覚える。民主党政権下で、外国人献金問題で知らなかったでは済まないと国会で発言したその人が。自らを含め、閣僚の献金に関し、知らなかったのだからと問題ないと発言する安倍首相。積極的平和主義とは何なのか。国際平和のために海外にも自衛隊を派遣する国を作ろうとしている。国際秩序を守るとの名のもとに、他国に侵略した戦前の歴史の復活と変わらないのではないか。本来、自衛権とは日本を守るものであり、他国からの侵略があって、初めて行使されるものではないか。自衛隊が軍隊かどうかの議論も大事であるが、それと同時に、日本から海外に派遣することではないはず。いつか平和がなくなる不安を覚える。解釈で改憲する安倍政権のあやうさを覚える。今の若者はそれを理解しているのであろうか。国会議員が戦争に参加するわけではなく、国民が巻き込まれる危険性をはらんでしる。
 江戸時代は260年あまりにわたって戦争をしなかった。世界で、有史以来初めてのことだ。この間に、制度、文化、習俗、考え方が熟成され、その果実が今も私たち日本の基盤となっている。戦後70年の中で、アジアや中東などで戦争が行われているが、第二次大戦後70年も戦争に巻き込まれていない国も珍しいことだ。こうしてみると、この1603年の江戸幕府の開府からの412年間で、対外戦争をした期間は1894年の日清戦争からのわずか50年ほどになる。このことも大事にし、その上に立ち、我々が、踏み固めるべき歴史であり、敗戦の結果、日本の今日の繁栄があることを忘れてはいけない。戦後70年談話をどうするかということが議論されているが、まず平和であること、そのためにこれからの日本をどう導くのかを議論していくべき。政府の指名する有識者が懇談するのではなく、まさに国民の意思を考えるべき。象徴である天皇陛下も、皇太子殿下も戦争に関しては危惧しており、その言葉の重みを理解できない総理大臣ではいかんともしがたいものである。

<今日のニュース>
東京大空襲から70年… 10万人超の犠牲者に祈り
 東京大空襲から70年が経過し、犠牲者名簿に新たな174人の名前が追加された。慰霊堂では秋篠宮ご夫妻・安倍総理・舛添知事らが参列した。3月10日に325機のB29がサイパンから飛来し、38万1300発の爆弾や焼夷弾がばらまかれた。空襲としては最大規模の10万人以上が殺害された。もう少し戦争が早く終わっていれば犠牲は避けられたかもしれない。最近になって夜間の空襲を地上からとらえた1枚の写真が初めて発見された。遺族の方からは、戦争を絶対にしないようにそれを肝に銘じてほしいなどのコメントがあった。

◆※金子みすゞ忌・・・童謡詩人、金子みすゞ(http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130411/p1)の1930(昭和5)年の忌日。西条八十から「若き童謡詩人中の巨星」と称えられたが、結婚後夫から詩作を禁じられ、夫から病をうつされた末、自ら命を絶った。

<3月10日生まれの先人の言葉>
●御木本 幸吉
 ・人は何かひとつのことに気狂いにならなければ、とうてい人並み以上にはなれない。
●石井 桃子
 ・児童文学の世界はあったかいものなんですよ。
<3月10日生まれの先人>
◆堀 秀彦(ほり ひでひこ、1902年3月10日 - 1987年8月27日)は、日本の評論家。石川県金沢市生まれ。旧制松本高校文科甲類を経て東京帝国大学哲学科卒。1958年東洋大学教授、のち学長。数多くの人生論、幸福論、女性論を書いて人気があった。1980年に新聞連載した『銀の座席』で老いの問題を論じて反響を呼んだ。
山下清(1922年3月10日 -1971年7月12日)は、放浪の貼り絵画家。裸の大将。
 東京都台東区浅草生まれ。小学生の頃、級友のいじめに遭い、その際ナイフで級友を傷つけたため、千葉県市川市知的障害者養護施設 八幡学園に収容される。学園で清は「ちぎり紙細工」に目覚め、1939年1月大阪の朝日記念会館ホールで展覧会が開催され、多くの人々を賛嘆させた。1940年から1954年まで、清は学園を脱走し、リュックひとつの放浪の旅へと出て行った。この記録は『放浪日記』(1956年)にまとめられた。驚異的な映像記憶力の持ち主で「花火」「桜島」など行く先々の風景を多くの貼絵にのこしているが、旅先ではほとんど絵を描くことはなく、八幡学園や実家に帰ってから、記憶をもとに一気に描くというスタイルだった。
 ・みんなが爆弾なんか作らないで、きれいな花火ばかり作っていたら、きっと戦争なんて起きなかったんだな。
 ・人間、死んだら何も出来なくなるもんな、やっぱり。
 ・死んだことのない人が、死んだ人のことがわかるかな。
◆犬丸 一郎いぬまる いちろう、1926年3月10日 - )は日本の実業家。帝国ホテル社長を務めた犬丸徹三の長男として生まれる。慶應義塾大学経済学部卒業。1949年帝国ホテル入社。清掃係、客室係、調理場勤務を経て米国留学。当初犬丸の社長昇格に難色を示していたメインバンクの第一勧業銀行に対し、筆頭株主である国際興業創業者の小佐野賢治会長の強い推しのもと、1986年社長に就任。1997年、社長退任と同時に取締役からも退任し、顧問に退く。
 ・企業の強さの第一条件はチームワーク、人の和です。私は役員陣をよくラグビーフォワードにたとえる。社長、副社長、専務がスクラムの第一列、常務以下が第二第三列を組む。フォワードの球の出し方によって展開は良くも悪くもなる
◆藤子 不二雄Ⓐ(ふじこ・ふじお・エー(エイ)、本名:安孫子 素雄(あびこ もとお)、1934年(昭和9年)3月10日 - )は、日本の漫画家。大垣女子短期大学客員教授座右の銘は「明日にのばせることを今日するな」。藤本弘藤子・F・不二雄)とともに藤子不二雄としてコンビを組み、作品を発表した。高校卒業後、1952年に、伯父が専務を務める富山新聞社に入り、学芸部と社会部で似顔絵やインタビュー記事を担当。1954年、藤本に誘われる形で新聞社を退社。藤本と共に漫画家となるために上京する。オバケのQ太郎』、『忍者ハットリくん』、『魔太郎がくる!!』などのヒット作にめぐまれる。厳密には2人の合作によるヒット作は『オバケのQ太郎』が最後であり、これ以降は藤子不二雄名ではあっても、そのほとんどはどちらかの単独作品である。1987年にコンビを解消し、藤子不二雄Ⓐとして活動するようになる。コンビ解消後は映画『少年時代』をプロデュースするなど多彩な才能を見せる。文章にも優れ、『二人で少年漫画ばかり描いてきた』などエッセイに才能を発揮している。
 ・初めて藤本の絵を見た時俺はこいつには一生勝てないだろうと思った。
 ・紙とペンそれさえあればどんな願いも叶うんだよ。
 ・描くぼくが楽しみ、読んでくれる人も楽しむ、そんな漫画がずっとぼくの理想なんだ。